発想の転換、とはいうけれど

秋のトランペット(水彩 F6)

「発想の転換をしなくっちゃ」と、人に言われるまでもなく意識し続けてきたつもりだが、もう開き直りこそ発想の(再)転換かもしれない、とさえ思う昨今。でも、ちょっと深く考えてみると、まずやってみて、その経験から学ぶという、地道な方法しかないように思えてくる。

「やってみる」という単純なことが、歳をとるとできなくなってくる。それまでの経験から、「きっとこう(なる)だろう」が、始める意欲を押しとどめてしまうとはよく言われること。たぶんそうなのだろうが、一番の理由は「あえて」やらなくても困らない、ことではないかと思う。つまり、わざわざリスクを犯す必要を感じないということ。

いくら歳をとったって、好きなことは理由がなくてもやるにきまっているし、必要不可欠となれば嫌なことでもやるのである。けれど、「やらなくても困らない」程度のことなら、あえてめんどうなことに手を出す必要はない。若い人は好奇心から「必要は感じないけど(人がやるなら自分も)やってみる」。客観視か主観視かの違いがあるかもしれない。

自分のことを考えてみると、他人が案外簡単そうにやっていることでも、未体験の自分にとっては意外に手こずることが少なくなかった。それらの小さなトラウマが先に立って、つい怖気が先に来るようになってしまっている。でも始めて見ると、時間が経つにつれて少しずつ回りが見えはじめ、足場も手がかりもだんだんに解ってくる(気がする)。・・・いやいや回りくどい。要するに、単純に若い人のように好奇心を持つこと、「それ面白そう」というのを見つけるということなんだろうね。

お金がないよ

ギリシャ風の皿のある静物 水彩・F8

「もうお金がないよ」と妻に言われるとドキッとする、どころか急に息が苦しくなり、心臓のリズムも乱れ眩暈がする。

そう言われても無いものは無いのだから仕方がない。「困ったね」と、コーヒーをこぼさないようにしながら、とりあえずそそくさとその場を離れるしか選択の余地はない。いったい誰がお金などと言う無粋なものを発明したのか、などと恨んでもはじまらない。

お金という概念の存在しないところで、一人で、魚を釣ったり、適当に畑を作って何か口にしながら好きなことをするのがいいな。そしてある日どこかで倒れたままあの世へ行く―無人島で一人で暮らす、といえばデフォーの「ロビンソンクルーソー漂流記」を思い出すが、漂流する直前までの彼はそこそこの貿易商人で、れっきとした経済合理主義者である。その本をネタにした経済学の研究や本もたくさんある。ドローンでどこにでも商品が届くようになると、狂人になるか深海の底にでも潜る以外、お金というものから逃れるすべはなさそうに思える(水中ドローンというのも急速進化中だから、深海底でも油断はできない)。

「もうお金がないよ」と何度言われても、その恐ろしい響きに慣れることができない。そのたびに息が苦しくなるが、やっぱり現代に生きている以上、慣れてはいけない言葉だとも思う。そのつど心臓を傷めるが、お金のストレスによる眩暈にペースメーカーは無力である。お金という特効薬以外に効く薬も無さそうなのである。

秋の夜は

秋の静物を描く

今日(11/20)は曇りの予報に反し、一日前の予報のような雨になった。11月は関東の平野部では穏やかな日が多いが、雨が降るとやはり冬の近さを感じる。

夏の暑さの中では赤い色など見たくもないが、秋も晩秋に近くなると(そういえば立冬をすぎているのだから、もう冬なのだった!)暖かい日の光を感じさせる柿の赤やオレンジ色が恋しくなる。朝はともかく、夕食には食事も鍋や暖かいものが食べたくなる。

そんなわけで、画面の真ん中に赤がどーんと坐るような配置で描いてみた。コリンキーという名の “生で食べられる” というカボチャの仲間で、名前から想像してイタリア野菜だと思っていたが(事実、イタリアやフランス料理の食材としてよく使われるという)、原産地はどうやら南米らしい。南米といってもアンデスとか、高地は寒いらしいからそれはそれで似合うと言えば似合うかもしれない。

一日の長さは24時間で、夏も冬も変わらないのは解っているはずなのに、秋冬は一日がどんどん短くなっていくように感じる。俳句でも「短日」「つるべ落とし」と、日中の時間の短縮を嘆くような気分の季語がある。ちゃんと24時間あることを感じさせるのは「夜長」。これから数か月、長い夜の中で、わたしたちは何を考えるのだろうか。