ざくろ

ざくろ

水彩教室のSさんにねだって石榴(ざくろ)を何個か頂いた。食べるためではなく絵のモチーフとして。単体でも良かったのだが、枝付きの石榴はもっといい。とりあえず3枚ほど描いてみたが、今年はざくろを描きたいとずっと思っていたせいか、なかなか満足しません。

このスケッチはわざと安物の、少しバサバサしたナイロン製の筆で描いています。荒っぽさを出してみたかったからです。高級な筆はもちろん使い良いのですが、そのぶんきれいに出来過ぎてしまうマイナス面もあります。きれいな色はいいのですが、それが多少の荒さと結びつくと、より生き生きとするのではないかと思ったのです。

日本ではザクロを食べる習慣のある地域は少ないようです。実も小さく、酸味も好まれないからでしょうか。スーパーなどで売っているのを見かけたこともありません。南アジア、中東では露店でもよく見かけます。ジュースに加工したり、そのまま食べたりするようですが、何しろ日本の数倍の大きさがあるのできっと食べ応えもあるのでしょう。

ザクロは英語でPomegranate(ポングラネート)だそうです。pomeはリンゴのこと。リンゴように丸いからでしょうね。granete のもとの意味は「種子」。種の多い果実だからでしょう。ただ、今ではGranate といえば「手りゅう弾」と思う人の方が多いかもしれません。戦争の多い20世紀以降、使われる頻度はこちらの方が多いのではないでしょうか。ザクロの色はGarnet(ガーネット)、和名では柘榴石(色)です。マゼンタに近い色ですね。

三者三様

T・U さん
H・Kさん(修正前)
K・Sさん

水曜油絵クラスの作品です。三人しかいませんが、三人ともそれぞれ個性的で良いと思います。上手に描くより、自分の内面により近いことを表現(するつもりはなくても)しているのが素敵だと思っています。

Tさんの場合、本人曰く「ここからどう進めたらいいでしょうか?」。わたし「もうこれ以上描くところはないよ」。まだ描き始めたばかりで、本人はこれから描き込んでいくつもりでいたらしいので、ちょっと拍子抜けした感じだったでしょう。
 実際、作品を拡大して見て頂ければ解りますが、のびのびしたタッチと、気負わない色彩とがマッチして、絶妙の状態になっています。けれど、説明要素が非常に少ないので、具体的にどんな木なのか、どんな草むらなのかは、観る側の想像力次第になっています。「枝のない木」ではなく「あなたが枝をつけてみてください」と言っているわけですね。あなたがすべてお膳に調えられたご馳走を喜ぶ人か、多少は自分でアレンジできる味わいを好むひとかで、この作品の評価はまったく変わります。評価に迎合しない選択がこの作品です。

絵画では、たとえば1個のりんごをモチーフに描く場合、①そのリンゴがどういう種類、状態であるかを描写することで、作者の技量などをアピールする ②そのリンゴを作者がどうとらえたのか、作者の感受性を主体に表現する の2通りがある(そのどちらが正解ということはできない)。①は、どちらかといえば古典的、伝統的なものの見方、考え方であり、②はより現代的な表現思考に属する、という考え方が一般的です。
 わたしの絵画指向は、基本的に②で、そのうえでわたしにとっての絵画とは、「画面の表面だけで」新しい世界像を作り上げることです。というと、やたら大言壮語に聞こえてしまうけれど、そうではなく、画面上の絵の具の発色とかタッチそのものが絵画の本質ですよ、ということです。また、「表面だけで」という意味は「作者の内面やプロセス」などどうでもいいということではなく、発色のことを考えたり、色の選択や筆の動きに、すでに作者の経験・思考や身心の状態が反映されているという意味です。
 と同時に、画面という視覚の完結性についても述べたものです。世間的に立派な人が描いたことと、絵画性とは無関係だと言っているだけのことですが、(特に日本の)マスメディアなどはむしろこちらの方にこだわりますから注意が必要です。古典絵画の巨匠カラバッジョは、殺人犯としていわば指名手配され、逃走しながら名画を描き残しているのですが、日本のマスメディアなら、「殺人犯」という時点で、絵画の業績などは一顧もされなくなってしまうでしょう。それとこれとは別、という単純なことなんですが。
 ①②いずれを選択するかは単に意思の問題だけではなく、本人の成長過程での社会的環境や個人的な関心や嗜好、生理的条件など様々な要因が絡み、①から②へ変わったり、その逆になったりすることも、例を挙げるに困りません。

 H・Kさんの作品は具体的で、何が描いてあるかは誰でも解ります。でも、何が描いてあるかは重要なことではなく、この全体を通してH・Kさんの特別な「静けさ」を感じて貰えればいいのです。ユリの種類だの、遠近法がどうだのと言っているようではそこへはたどり着けません。そういう説明をスパッと捨てていることが「経験の力」なのです。
 K・Sさんの作品は、枯れかけた草むらの一隅をクローズアップしたような画面です。そのまま描いたような、または抽象化されたような、どちらとも言い難い画面ですね。具体的、ありふれたなものも、見る距離や見方が違えば、これまでと違う世界が現れてくる、と作者は感じ、考えているわけですね。その感じ方、考え方を、できるだけ簡潔に表現するとしたら、あなたはこういう表現法以外にどうしますか?と見る人に(自分自身にも)問いかけてもいるわけですね。
 そういうことが意識化されているという意味で、3点ともかなり高次元の作品だと、わたしは思っています。残念なことは、作品が高次元になればなるほど、一般の人から離れ、評価を失っていくのが現状です。いたるところで素晴らしい感性を示す日本人なのに、芸術などに関しての国民的な教養がそれに釣りあっていない、と日々感じています。が、個々の力ではどうすることもできません。

Where it’s at 素敵な場所

「少年と犬ー冬」2002年 F100 テンペラ、糊、書道用紙など

素敵な場所は、今はどこにあるんでしょうか?目の前に、摘んできた野葡萄を置いた爽やかな高原のロッジ?渋いチェロのレコードが回っている、歴史ある街角の中のカフェ?静かに降る雪を見ながら暖かいミルクコーヒーを飲んでいるアトリエ?嵐の過ぎるのを待って寝そべっているテントの中?いつでも戻れると思っていたのに、いつの間にか、どれもとても遠く感じる場所になってしまった。

その場所はいつでもその場所にあり、友人たちもそこで楽しく宴を楽しんでいる。そこに自分もいる。そんな素敵な場所は今はどこにあるんでしょうか。

現実にそんな場所はいくらでもあり、その気にさえなれば誰でも(たぶん)行くことができる。そして、そこへ行けば、きっと想像以上のことが目の前で起こる。旅の面白さはそこに尽きる。ここ数年、旅らしい旅をしなくなった。途中で歩けなくなったらどうしよう、そんな心配が先にたって、旅に対して積極的な気持が持てなくなってしまった。東西南北どちらへでも、電車で1時間も乗れば、机の前の窓から見る風景と違うものを見ることはできる。そのうえ予想外のことは必ず起きる。それが分かっているのに出かけないなんてどうしちゃったんだろう。

脳ミソに無駄な脂肪がつき、足腰からその分の筋肉が無くなって、体重は差し引きが釣り合って “健康” 的だなんて。そんなものが一体何だというのだ。動物は動けなくなったら餌を摂ることはできず、死ぬしかない。動くことが動物だという単純過ぎる意味でウオーキングなどが奨励されているのではあるけれど、動くだけなら機械も空気も動いてはいる。まして、ただ歩くことが目的の動物などいるはずもない。
 素敵な場所はどこにあるのか。どうやったらそこに行けるのか、考える脳の足腰を鍛えるために、夢の中を歩く。