新しい誘惑

今年も似たように花は咲くが、誰も前の花など覚えてはいない

浮世絵版画の背景?に書かれた文字が読めないというイライラは以前からあったので、この際一挙両得ということで、変体仮名の勉強を始めた。(もともと外国語ではないので)覚悟を決めてかかったわりには、読みだけなら、それこそ基本のイロハを覚えれば何となく読める。江戸の庶民は基本的にひらがなしか読めないので、それで浮世絵の中の文字ならだいたい読めることになり、当座の目的は達成する。

けれど、読めるけれどなんの事だか分からない、というのがたくさんある。例えば江戸時代に使われた道具ひとつとっても、現在既に使われていないものについては、それが道具であることさえ分からない。それは江戸時代の文化や社会などについての知識がないからだ。

それを知りたいとなると厄介だ。どんどん深みにはまってしまう。これは危ない。どこかで切り上げないと大変なことになる。しかし、危険というものはたいていいつも興味と背中合せになっているものだ。はじめの一口がいつのまにか大酒飲みを作り出してしまうようなものか。

80回目の楽しみ

スケッチの楽しみ方に似ているようだ

俳句を始めて数年になる。毎月1回の句会も昨日で80回になった。途中で自分なりの工夫を凝らした時期もあったが、概ね惰性で、かつ句会前日の「ねつ造俳句」が今もほとんど。反省。

17文字が、やはり窮屈だと感じることが最近ある。(無季の俳句もあるが)俳句の基本的理解としては、一句にひとつの季語を入れることになっている。基本リズムは五、七、五。これを上(かみ)、中(なか)、下(しも)と呼ぶなら、多くは上か下かに季語が入り、その繋ぎでたいてい5文字を消費する。

残りは12文字だが、リズム上の制約があり、使える単語が絞られてくる。だから類想、類句が多くなる。というより、そうせざるを得なくなってくる

しかし、絵画における色の数より、単語の数は多い。色数の限られた絵画のイマジネーションが尽きることのないように、俳句もまた一語一字の選択や配置などによって、伝わる内容も微妙に変化する(ようだ)。こう書くと、職人的な楽しみ方しかないように聞こえるが、そうでもない。

では、俳句は本当に楽しいのか、と聞かれると、どうもよく分からない。ねつ造もそれなりの苦しさがあるから、やめても良さそうに思えるが、あえて止めもしない。たぶん、どこかに何らかの自己満足感があり、本当の楽しさといえばそれで十分なのかもしれない。

フランスの国鉄ストライキ

「或る軌跡」習作

フランスの国有鉄道が毎週2日ずつ、最大三か月続ける予定でストライキに入った。実施される日には、都市部の鉄道の8割以上が影響を受けるという情報もある。

日本ならあり得ない。という意味は二つある。ひとつは、「そんなに多くの人に迷惑をかけることは許されない、許さない」という意味。もう一つは「ストライキの意味が日本人には理解できない」ということ。

3ヶ月も続けるということは、そんなにも長いストライキが「フランスでは許される、許す」ということだし、それはその意味が理解されているということでもある。

ストライキは元々「人に迷惑をかけるため」にするものだ。それが「圧力」だから。「人に迷惑をかけないストライキ」など本来は矛盾である。しかし日本人は、良くも悪くも「人に迷惑をかけない」ことを、特に強調され、教育されてきたために、「迷惑だが、それは回り回って、結局は自分たちの為になる」という歴史を持つことが出来なかった。フランス人との差がそこに現れている。その理解がなければ「働く人の人権」は理解しにくいし、当然目の前の「働き方改革」も中身のあるものにはならないだろう。意識改革が必要だが、これには相当の「意識改革」が要る。