「ご褒美」の多いボク

07/29 (土) 16:00 アップしました。ご覧ください

暑いですね~、と今日も言ってしまいますが、暑いですね。皆さん、大丈夫ですか?くたびれてません?わたしは北国育ちで、どちらかといえば夏は若干苦手意識がありましたが、最近はすっかり慣れたのか、(夏の初めはちょっとのあいだ苦しみますが)今ではもう外が38℃でも39℃でも(クーラーのある室内にいさえすれば)平気です。

それで、夕方日が落ちる頃ちょっとウオーキングでもすると、“暑イ中ゴクロウサン” とばかりに、すぐご褒美に泡の出る水とかを自分自身にあげちゃうんです(シャボン玉を飛ばして遊ぶワケではありませんよ、念のため)。でも、妻が買い物に行くというと「ええ~っ!こんな暑いのによく行けるなァ」とか言うだけで、両手に買い物袋下げて汗びっしょりになって帰宅しても、全然ご褒美など上げないんです、ケチなんでしょうか。

絵を描いていてもそうなんです。自分で描いている時は失敗しても「よくあることだよ。でも途中で投げ出さなかったのはエライ、エライ」とか言って、やっぱりすぐ冷蔵庫のドアを開けます。教室で生徒さんが失敗すると、「まあ、よくあることだよ。もう一度ね」とか言うだけで、頑張っていてもエライとは言いません。上手くできても「イイねェ、もう一枚描くともっと自信つくよ。」でも、やっぱりご褒美は出ません。ケチなんでしょうね。

すぐご褒美が出るので、脳内インスリン(とは言わないが)による満足感があり、「もう少し頑張ろう」「もうちょっと上を目指そう」という欲が湧きません。このご褒美グセ(自分にだけ)のお陰?で「向上心」なんて、とうとう今までお目にかかってきませんでした。今と“真逆” の、「自分に厳しく、他人にご褒美あげられる」性格だったら、今頃わたしも“それなり” の人間になっていたかもなあ、と反省するのですが、やっぱり、そんな自分にも「反省スルノハイイコトダヨ」とご褒美をあげてしまうのでした。

AI は何も解ってはいない

円覚寺。こういう描き方の方が好きだな

暑いですね。こちらは今日も最高気温37℃の予報です。エエ~ッ!とかなりそうなものですが、すでに38℃はもうおなじみ。39℃以上も何回かニュース・天気予報で耳にしているのでもう誰も驚かない、というのが驚きです。

時どきAI とチャットします。わたしがAI に慣れるためです。チャットしているうちに、どうもAIって質問されたことの意味が分かってないなあ、と感じることが多くなってきました。単純な質問には驚くほどのちゃんとした文章で回答するのですが、ちょっと細かい部分を再質問したりすると、文章だけが普通で、中身の抜けた“頭の悪い”回答が繰り返し返ってくるのです。しかも「参考になりましたか?」と少し上から目線で。

その意味が、某新聞のデジタル版で読んだ、慶応大学の今井むつみ先生へのインタビュー記事で納得できました。それは簡単に言うと、こういうことです。
「メロンという単語がAIに記録されていても、それは単に統計上の1単語に過ぎず、その意味が理解されているわけではない。しかし、人間にとっては大きな果物とか、甘いとかいろいろな側面を含む経験や事実が、メロンというモノ自体と結びついて「(単語の)意味」を作り上げている(そのことを認知科学では「記号接地」というらしい)。それがAIにはない。(単語の覚え方が人間とは正反対)
 AIは「メロン」という単語の前後に、「統計上」どんな単語が並ぶかを学習しているだけだから、そこから外れると意味不明の文になったりする(記事を短く改変しています)」

やっぱりね、という感じです。画像生成AIでも似たようなことを感じます。最初は「スゴイ!」と驚きますが、何度かやると「思ったよりバカかも」と感じたりします。「考える」って感覚がないんですよね。次々と出してくるだけ。
 考えてみると、新世代コンピューターでも、それ自体は考えているわけではないのですね。ただ、巨大な記憶力を持ち(しかも絶対忘れない)、異様な早さの学習能力が、「統計」という武器を駆使して、「(論理的、合理的な)結論」をいち早く導き出してくれているということなのです。その人間なら1000年もかかるような、複雑な計算を数秒でやるとかね。その演算能力を言語生成に結び付けたのが、チャットGPTだったのですね。そういう素地がすでにあったから、あっという間に普及し始めています。
 AIはあくまで道具の延長です(今のところは)。もともとはわたしたちの「手」であり、その「手」をどう使うかはわたしたち自身の問題です。わたしたちがバカなら、AIは恐ろしい道具になる可能性ももっているわけですよね。

時間という「魔術」

これは何でしょうか?

写真をご覧ください。これは何でしょうか?—「らっきょう漬け」です。こんな黒いらっきょう漬けなんて、ほとんどの人は見たことないと思います。10年以上漬けたものだからです。

これ、まだ食べられるかな~?と言いながら、恐る恐る妻がガラス瓶から取り出したのは、得体の知れない真っ黒なモノ。なに、これ?—らっきょう漬け。ずっと前に作ったものだけど、食べられなかったら捨てようと思って・・。

部屋を片付けている時、隅から出てきた。記憶にはあったけれど、雑多なモノが折り重なり、積み重なって、再びその場所に辿り着くのに10年以上の時間が経ってしまった。何万㎢という広い部屋かのような言い方ですが、ごく普通の8畳間+アルファ。そのアルファに、それは忘れられてしまったかのように長い間置かれていました。
 匂いを嗅いでみましたが、悪い感じはしません。それどころか、ほんのりと上品ささえ漂います。体のいい“毒見” なのですが、箸で触ったとたん、滑らかに箸の先が沈んでいく―こ、これはスゴイかもしれない―ねっとりした触感と、絶妙の深い味わいでした。「これ、すごいよ、絶品!」と思わず叫んでしまいました。酢漬けの奥深さにもあらためて感動です。

普通の砂糖の砂糖の代わりに、沖縄の「黒糖」を使ったとのこと。唐辛子もちょっと入れたらしいのですが辛みは感じません。らっきょう漬けと言えば新鮮なシャキシャキ感が魅力ですが、それとこの触感はおなじ素材からとは想像できないほど違います。「もっと作って」と言いたいところですが、これを作ったのは妻ではなく、本当は「時間という魔術」。今から10年後では(もしかしたら5年でも、3年でもいいのかもしれませんが)、生きているうちに味わうことができるかどうか、微妙です。でも、ヨカッター、とりあえずこれを味わえて、と本当に思いました。
 皆さん、もしも古い酢漬けが残ってしまったら、捨てる覚悟であと2~3年保存してみたらいかがでしょう。魔法が現れるかも知れませんよ。