スポーツに「参加する」

アロエ

冬季オリンピック北京大会が終わった。ネットで女子のカーリングのライブを見ながら、スポーツの新しい流れを見たような気がした。競技の中に視聴者が「参加しているかのような」感覚を持たせる、「疑似(あるいは視覚)参加型」ゲームがこれからのスポーツの主流になるだろうと感じたからだ。
 スピードスケートやフィギュアなどでは、応援はできても「参加」意識など、経験者以外には絶対に持ちえない(たぶん)。

画面に映るストーンの配置を見ながら、「こうすればこうなるのでは」と自分なりの作戦を描き、選手が実際に放つコースや早さに「あ~!」とか「ナイッシュー!」などと声を上げた人も少なからずいたに違いないと、思わずこちらの口元もゆるむ。

カーリングは「氷上のチェス」などとも呼ばれているらしい。そんな言い方から、一見、将棋や囲碁の世界と通じるように感じる人もいるかもしれないが、そうではない。やはり、スキーのジャンプ競技や陸上競技の円盤投げやハンマー投げなどと同じような物理的要素、「質量、速度、(温度)摩擦力」の組み合わせ方をどう読み、それを自分の技術・体力とどう関連付けて使うかという、現在のスポーツの本質にしっかり繋がっている競技なのである、と思う。「物理」は誰にとっても常に明らかな現象である。だからこそ、ど素人のわたしなどにもある程度の想像が可能になるのであり、(これからパラリンピックが始まるが)その想像的参加が「身体の稼働領域」を越えて、ゲームへの参加(意識)につながるのではないか、と思う。

その意味でわたしなりに言い換えれば、「氷上のビリヤード」の方が「チェス」よりはるかにカーリングのような「物理」的現実に近い。だから、これは将棋よりもっと手軽にゲームにもe-sports になり得る。たぶん、もうなっているだろう。「参加型」と言ったが、「*参加することに意義がある」と言ったクーベルタン男爵の、おそらく彼の予想もしなかった新しいかたちで、その理想がやっとこれから少しずつ実現されていくのではないか、とも考えた。

*(この言葉の内容にはさまざまな意味・解釈があるらしい。ここでは訳語の字面通りに解釈しておく)

一喜一憂しない・「道」

「Apple and a Book」  F4 Tempera

北京オリンピックが始まってもう10日目くらいになる。コロナのことと国際情勢が気になっていたが、ニュースを見聞きする度に話題になるのでついそちらにも気を引かれてしまう。そのなかで感心したのはスノーボードの平野歩夢(あゆむ)選手のインタビューだった。

選手に限らず、芸能人でも政治家でも、NHKと民放とのインタビューとで、微妙に態度が変わる人がほとんどだと、わたしはこれまでずっと感じていた。大多数は心なしかNHKのインタビューアーに「合わせて話」しているように感じるのだが、彼はそうではなさそうだった。海外で取材されることに慣れているせいなのか、「普通に(自分本位に)」話す。それがカッコいいなと思った。
 スノーボード(ハーフパイプ)の最高難度の技「トリプルコーク1440」も、試合で成功させているのは世界で彼だけなのだそうだが、あの堂々とした態度(たぶん「生意気」だとか、逆に不快に感じる人もきっといるだろう)もまた、「へりくだりオンリー」の日本人選手の中では、案外彼くらいにしかできないものなのかもしれない。何かといえば「周囲への感謝」ばかり口にする選手には申し訳ないが、もうウンザリ。「もっと素直に本音を言えばいいのに」と言いたい気分を彼が消してくれた。

夏の東京オリンピックでも、たまたま彼のインタビューを見た。たしか、メダルを獲ることはできなかったと思うが(レース自体見ていない)、金メダル確定後の今回との話し方が全然変わらない。まだ23歳だというが、メダル云々よりそっちのほうが凄いと思った。
  金メダルは「相対的」なものだが、「生き方」はそうではない。―(言葉はそのままではないが)「周りがどうであれ、直前の結果がどうであれ、いま目の前にあることに集中することが(普通に)できるようになった。それが自分の成長」だと語っていた。そしてそれをテレビカメラの前でも「普通にやっている」ことにいささか感動する。この人は「自分の」スノーボード「道」を建設しているんだな、と思う。

繰り返しになるが、「一喜一憂」するということは直前の結果に、それも周囲の評価にとらわれる、ということ。個人ならそれにもそれなりの意味がある。けれど、「道」を作るということは、その跡を人が踏んでいくという大前提がある。その「ゴール」を見据えれば、NKKはじめメディアの勝手な毀誉褒貶に一喜一憂などしてはいられない。「道を建設する」というのはそういうことからしても異次元のことだろうと思う。
 金・銀のメダルはその「道」の建設資産として有用だし、積極的に活用すべきだろう。けれど、一方でそういう打算を排除する潔さ(ピュアなこころ)が、「道」を求める者には不可欠でもあろうと勝手に想像する。それがあるかないか。ただの23歳にならそれを求めるのは酷かもしれないが、求道者としての彼にとっては「薫風」でありたいと願う。

Apple in Green

Apple in Green (エスキース2)

昨日のエスキース、背景が赤で力強い感じを表現してみたが、今日は一転して「グリーン」。第三者目線で眺めてみると、「Appleのふるさと」感みたいで、ちょっともろもろの対象物(オブジェ)が説明的過ぎると思えてきた。

今回のエスキースで考えていることは
①色は平面的に塗る:タッチ(筆触)はあってもよい
②線(時には輪郭線)と色をずらすこと:塗り絵にしない
③線は、ラフで乱れていることを良しとする
④視点を一方向に限定しない:見上げたり見下ろしたりを“勝手に”やる

その結果、絵を見た人がどう感じるかを予想してみると、
①「ちゃんと描けない人だ」=「ヘタクソだ」と思う
②「こんなの子どもでも描ける」と思う
③色はきれいだが、「芸術的な深みがない」と感じる
④難しいことは何も描いてないので、気楽と言えば気楽

若干肯定的なのは④くらいで、たいていは「芸術的な有難味が無い」。要するに「ダメな絵」をわざわざ描いているってことになるだろうか。先日までのCGスケッチにせよ、写真的な描写の練習にあんなに時間をかけてきたのは何のためだったの?(このブログを初めて見る人は、2021末頃~1,2週前くらいまでササっと見て頂けると有難いです。すんません)と思う人多いと思う(実はわたし自身もそんなこと感じながらいつも描いている)。

今の段階で答えられることは
①「思わせぶり」「考えている風」な絵は描かないことにしたい
②「芸術」よりも「造形」を重視
③単純にきれいな色は気持ちがいい→アタマ空っぽになる
くらいでしょうか。20年前なら、これはすべて逆でした。つまりわたしの「絵画観・芸術観」は180度変わったってことです。きっと「あたま大丈夫?」って感じでしょうね?