夏の「重さ」

                「プラムと薔薇」  水彩、アクリル、テンペラ

ずっしりと「夏の重み」が身体に感じられてきた。夏が「重く」なってきた。だからといって、ずるずると押しつぶされているわけにはいかないぞ。

この難敵、重い相手をどうやって打ち負かすか。お金があれば、単純に涼しいところでひと夏を過ごせばいいわけだが、貧乏人にはそんなことはできん(実家が北国の人なら「タダで」できるが)。心頭滅却すれば夏また冬のごとし・・でもあろうが、凡人ゆえそれもできぬ。

いずれもできぬとあらば、「裸になる」しかあるめえ。そして「暑さ以外のこと」に意を凝らすべし。この二つは両立可能だ。つまり、パンツ一丁でせっせと絵を描くこと。
 実はこれは笑い話ではなく、「秋の公募展」に出品する(そして、今ほどクーラーなんてない時代の)作家たちは年齢男女を問わず、そうやって出品作を制作していたんですよ。わたしもその一人だったんです。懐かしいですが、もう戻りたくはないですね (>_<) 。

葛飾北斎だって、夏には褌一丁で、頭から水を被りながら絵を描いていた、と本人が何かの時に言ってたぞ。このプラムもその「重さ」に溶けかかっていて、指で持ち上げるのも難しそうだ。

ブラジルに負けて

        「水指とプラム」 アクリル

「初物」が日本人は好きだ。日本人でなくても、First-time というのは世界中の誰にとっても(喜ばしいかどうかは別にして)記録・記憶に留めようとする意志が感じられる。

けれど、たとえば「初春(はつはる)」。年賀状を出さない人の方が多くなってきたらしいが、たとえオンライン年賀状でも「初春」なんて書くでしょう?俳句などでは「初」だらけだから、一月の季語は覚える必要もない。なんでも「初」をつければ済むからね。もう数万回見てるはずでも「初夢」なんてね。これほどの「初」好きは、たぶん外国人には理解不能でしょうね。これ、Sさんに頂いた、わたしの「今季・初プラム」。美味しかった。

サッカー・ワールドカップ 2026で、日本は決勝トーナメント一回戦で「天敵」ブラジルに敗れた。「初」優勝を目指していたが。「初」戦敗退。出場48チーム中ベスト32だって??。
 でも、日本のレベルは大会ごとに確実に上がっているのは感じる。言葉は悪いが、「お嬢様サッカー」から、少なくとも「戦士」レベルになったことは確かだ。「戦士」なら、勝ち負けは紙一重のレベルだから。

とは言っても、やはりブラジルとの差もすごく感じた。これは、差というより、選手個人、監督、チームを越えた、「文化」レベルの違いだと思う。日本の選手もブラジルの選手も、口にする単語も戦術も同じ。何が違うかといえば、やっぱり彼らの社会の中でのサッカーの位置、意味。そこに生きている選手個々の人生におけるサッカーの比重。社会のサッカー愛の深さ、その中にどっぷり浸かって生きてきた、その「浸かり具合の違い」だと思う。
 いずれ日本もブラジルと同等に戦える時が来る。それでも彼らの「サッカー文化」はリスペクトし続けてほしい、とも思う。

題名のつけ方

       「慈雨(あじさい)」 水彩 ラングトン紙

紫陽花(あじさい)の季節になった。ちょっと出かけるとわが家の庭だけでなく、どこの家の庭からも紫陽花が “こんにちは” と首を傾げてきます。

この絵を見ると、背景に見えているレオナルド・ダ・ヴィンチの、「荒野の聖ヒエロニムス」が「あじさい」とどう関係あるのか、紫陽花より先に疑問に思いますよね。
 「聖ヒエロニムス」は、悟りを得るため、あらゆるものを教会に寄進して荒野に修行に出ます。そこで足に棘が刺さって苦しんでいるライオンの棘を抜いてやります。それが背景の絵の情景です。

要するに絵のテーマは「(無償の!)愛」(当時のキリスト教会の「無償」についてはいろいろあるようですが)。「あじさい」に雨はつきもの。そこに「慈雨」というタイトルをつけると、バラバラだったモチーフがピタッと一つのピースにまとまる、と思ったんですが、理屈のこね過ぎかもしれませんね。

たまたま紫陽花の写真を探していたら、背景の一部に「聖ヒエロニムス・・」のページが偶然写り込んでいました。このかけ離れた2つのモチーフをくっつけたら面白いと思ったので、理屈をこねてみたのでした。左右の大きな対比も意識しています。