今日の提出課題

やれやれ、やっと今日の課題提出だ

今日の課題は、「マスクレイヤー」と「クリッピング・マスク」の復習。パソコンで絵を描いたりしない人には何のことかわからない単語だと思うが、やっているわたし自身もまだよくわかっていないので、わかりやすい説明などは無理。描画アプリの中にそういうツール(道具)があって、それを使えばこんな効果になる、とだけ言っておこう。

一つのテーマを決め、参考になる動画を探して真似をするのが目下の勉強法。そのあと、その応用課題を(できればその日のうちに)作ってみるのが目標。それがなかなかできないばかりか、そもそも動画をちゃんと見ることさえ出来ていないことが分かってきた。

もちろんYouTube などにある動画のほとんどは編集されたもので、映像のコマとナレーションが合っていなかったり、見たいところが早送りされていたりして困る時もあるが、なにより、あまりにも自分の知識が無いために、現実に目の前に見えているのに「見えていない(意識されない)」のである。何度も繰り返し、しっかり見たはずの動画を後日改めて見ると、あれっ?こんなカットあったのかぁ、などとがっかりすること多々。

1年前の動画だと、もうツールの機能までガラッと変わっていることもある。まさに「日進月歩」。一つを覚える前に次の次までできているという按配で、ため息をつき始めると果てがない。「コンピューターを使いこなせる人などいない」「せいぜい特定の分野だけ、なんとか追いついていける人がいるだけだ」という人がいるが、きっとそうだろう。たくさん覚えるのはもう無理だとしても、もうちょっと分かれば、もうちょっと面白い発想ができるかもと、かすかな期待はあるが。

ただのデザインじゃないか

初夏の Apple  (CG)

この絵を見たら「ただのデザインじゃないか」という声が聞こえてきそうだ。デザイナーからは「ただのデザインの『ただの』とは何だ」という声も同時に聞こえてきそうだ。

わたし自身も、これじゃ「デザイン以前」だと思う。たいていのデザインにははっきりした(社会的、商業的)な目的がある。一方、(現代の)絵画にはそういう意味での目的はないが、作者個人の生存意義を深め、「社会との違和感」を作り出すことによって(広い意味で)社会の変革を促す力になる。それが絵画だとするならば、ずいぶん薄っぺらく、とてもそんな力などどこにも入っていないように感じるだろう、ね。

そう、「薄っぺらい」よ。人々が「絵画(芸術)」に求めるものは「人生」とか「哲学」の深さ、重厚感だろうが、これはペラッペラに「薄っぺらい」。「これを『絵』だと言うこと自体、お前の薄っぺらさを示している」というお怒り。ごもっともでござんす。

反論などござんせん。でも、あなたの健康に悪いので、もうちょっと落ち着いて血圧を下げてもらって、いましばらく我慢しておくれやす(我慢のお駄賃はでまへんが)。

パソコンとつき合う

おとなしい Apple  (CG)

今日もイラストレーター・アプリの練習。昨日と今日の午前中いっぱいかかって何も作れなかった。一つ一つのツールについて調べる時間が長く、なかなかしんどい。おまけに昨日はウォーキングで先日痛めた足を悪化させてしまった。数日はウォーキングも”jisyuku”だ。

 毎日パソコンに向かうと、当然ながら少しずつパソコンのことが分かるようになってくる。パソコンと自分との接し方も考えるようになってくる。パソコンを友人と考えるなら、こんなに有能で頼りがいのある友人なんて滅多にいるものじゃない。そのうえ、どんな無理難題を吹っかけても腹を立てるでもなく、差し出がましい口も利かない。森さんも「女性のいる会議は長い」などと言わず、オンラインの会議に慣れたほうが何倍も良かった。

脱線してしまったが、「パソコンのことが分かるようになる」とは使えるようになるということではない。パソコンと自分との違い、考え方の違いを感じるようになるという意味だ。パソコンにはハード、ソフトの開発者の歴史が、わたしにもこれまでの人生経験があり、それがお互いの現在の考え方や行動の基準になっている。その違いを認めないと始まらないということだ。パソコンの考え方に近づけばパソコンは素直に働くし、考え方が違えばギクシャクする。人間と同じ。

一方で、パソコンはある意味で「社会」そのものでもある。「世界」と言ってもいい。もう「架空」ではなく、すでに現実である。スーパーでお惣菜を買うのが現実なら、パソコンで冷蔵庫を買うのも現実だ。学校で授業を受けるのが現実なら、先生がパソコンで勉強するのも現実だ。パソコンとの接し方は自分が主体であるかどうか、そこにかかっているように見える。自分にとって何が大切で、どうなれば自分が幸せになれるのか、そのためにパソコンが有用なら仲良くなればいいし、要らないなら使えなくても何の問題もない。そこはまだ現実の方が、現実になっていない。