晨春会(しんしゅんかい)展

Apple on the book 2021 F100 tempera

明日から、晨春会展が始まる。6月6日(日)17:00まで。昨年はコロナ禍を考慮して、東日本大震災の時でさえ開催してきた展覧会を初めて中止した。今年も中止するかどうか議論したが、いま、活動を継続すること自体が意義あるとして開催することにした。

ネットだけで公開することもできる。「見るだけ」なら写真の解像度次第では、肉眼より詳しく見ることも可能である。けれど、実物をその会場で見るのは、それらとはかなり違って見える。いや、感じると言った方が近い。それは簡単な理由からで、会場には会場の空気があるからである。会場の空気とは、作者と何かを共有する空気ということになろうか。会場に作者がいるから、ということではない。レオナルドの絵を画集で見ても凄さは感じるが、実物を生の眼で見ると、なぜか時空を超えて作者の息吹をほんの少しだが感じるのである。それが「空気」。同時代の作家なら、それがもっと強く感じられるのは当然である。

コロナ禍で多くの美術展、音楽会、芝居などが中止され、美術館、劇場、ホールも休館させられるなど、芸術が「不要不急」の代表のように扱われてしまっている。こういういい方は本来したくないのだが、あえて言えば、芸術こそ一番底辺で現代の社会を支えるものではないのか、ということ。会社員が通勤して、工場や会社を動かすことが現代社会の骨格であることに異論はない。けれど働く会社員にとっては、本物の歯車にされてしまっては働く意欲そのものが萎えてしまう。自分たちの子どもをただの歯車に育てたくもない。

「作品に出合って稲妻に打たれたように」感じたことのある人はどのくらいいるだろうか。きわめて少数に違いないが、そのことの意義は小さくなく、そのチャンスは多くはない。いわば一期一会。その機会を求めに行こうとすることが「不要不急」などであるはずはない、というのがわたしの「遠吠え」である。カッコつけたが、わたしの絵などわざわざ会場へ見に行くほどの価値もないという人のために、この絵を掲げてみる。

楽天的と無知(ワクチン接種予約)

メディニラ 水彩+CG

金曜日にコロナワクチンの接種券が届き、パソコンから予約した。日程を調節したり雑事が入ったりして、予約サイトにログインしたのが翌日の午後1時過ぎ。すでに選択肢はなく、接種スケジュール最終日のいくつかの時間帯が開いているだけ。結局、1回目、2回目とも7月(2回目は7/31)となった。接種券が届いた翌日なのにもう選択肢が無いという不満は残ったが、とりあえず予約できたと、それだけで土曜日の仕事が終わったような気になった。

「その日その日の受付枠というのがあるんじゃない?」と日曜日の朝(つまり今朝)、遅い朝食を摂っているとき息子が言った。—あゝ、そうだ。その日に限っての選択肢だったのかも知れない、とその時初めて思い至った。考えてみればすべての枠をすっかり開放してしまったら、実質的に先着順の競争になってしまう。どの自治体もそこを考慮して、その日その日の受付枠を設定しているはずと考えるほうが、むしろ自然である。

とりあえず予約できたからいいや、まではまあ楽天的といっていいだろうか。でも、もう少し早い予約の取り方があるのではないか、受付枠の解放の仕方はどうなっているのだろうか、という発想が全然無かったのは、無知のせいである。「たとえば○○市では、こういう日別の受付枠が公開されているよ」とスマホで見せてくれた。残念ながら当市ではそのような情報は公開されていなかったが、されていたとしてもそういう知識がなければ、それを見ようという発想自体が起きてこない。

知らぬが仏、という言葉がある。ある意味無知であるがゆえに楽天的になれる、ということだが、そのまま裏返せば「知れば地獄」ともなる。実際、そのことを知ったために予約を変更した方がいいかもとか、ちょっとジタバタ「気持ち悪い」時間を過ごした。「備えあれば患いなし」も、どんな病気や災害に、どんなふうに備えたらいいか、そのための用具、知識をどうやって入手するか等々、無知なままでは何ひとつ備えることができない。そのうえで「患いなし=楽天的」なのだよ、と読み換えるべきなのである—それでも、へそ曲がりは抵抗する。「怖さ知らずだからこそ、人は新しいことができるのではないか。」でも、内心ちょっと分が悪い感じはする。

働きかた未改革

「宮代運動公園にて」  移動中チラッと見えた、気持ちよさそうな場所

「働く」ということはどういうことか。その「定義」をこれまでと変え、「新しい働き方」を志向する、というのが「働き方改革」ではなかっただろうか。コロナ禍でオンライン化が加速され、改革は進むはずだったのではないか。ろくすっぽ働きもしないわたしがいうのもなんだが、もっぱら時短とオンライン環境くらいが話題になるだけで、「働く」ということの意味自体はほとんど問われていないのではないか、と思う。

働く時間と方法という意味では、確かに文字どおり「働き方」はすこし変化(決して改革なんかではなく)したかもしれない。飲食店ではテイクアウト用の品を作るようになり、会社員の数%は会社に出勤せずに仕事ができるようになり、配達する人は一層忙しく、体力をすり減らすようになった。でも、これでは単に「働き方の変化」ではあるが、どこも改革になどなっていない。働かなければ生きていけない以上、働き方=生き方であり、そうであるならば、「どう生きるか」「どんな生き方をしたいのか」を考えずに「働き方改革」など、絵に描いた餅どころではない。

「働き方改革」の根本は「働く=お金を稼ぐ=時間・体力の提供」という等式を変えるということだろうと、わたしは思う。働く≠お金を稼ぐ、でもいいし、お金を稼ぐ≠時間・体力の提供でもいい。とにかく、この等式からチェンジすることが「改革」なのではないか、と考えるのである。会社が個人の上に在って、雇ってもらわなければ生きていけないという悲壮な発想を変えること。それが改革のエンジンなのではないか。

大きな会社に就職して「安心安全!な生活」のあと、悠々自適に海外旅行…なんて戦後の発想が今も年配の方を中心に、妄想として残っているのではないだろうか。どこかで「額に汗して」「世のため、人のため、会社のため」に「自己犠牲を顧みない」という、誤った「美徳」感をいまだにまき散らしているのではないか。それが子ども、孫に悪影響を及ぼしていることにさえ気づかないほど、耄碌した社会になってしまっているのではないか。「遊んで暮らせるほど世の中は甘くない」と教訓を垂れるのではなく、そういう社会になったらみんな楽しいんじゃない?という肯定感が、この奴隷根性に縛られた日本には今一番必要なんじゃないかな、と思うのだけれど。