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今日は山へ柴刈りに行ってきました。妻は川へ洗濯に。すると上流から大きな桃がどんぶらこ、と流れてきたんだそうです。帰宅したわたしが「今日は27℃もあったが、わりに空気が乾燥して、むちゃくちゃ汗をかかずに済んだわい」というと、「そうけえ。そりゃあ、えがったな。ところで、わしゃあ、こんなもん川から拾ってきたんだわ」と言いながら、座敷の脇の大きな篭を指さした。わが家では見たこともない、でっけえ篭だったんですが。

しかも、そんなかに、“なんじゃ、こりゃ!” と飛び上がるほど、大きな桃が鎮座しておったんですわ。よくまあ、こんなでっけえ桃もあるもんじゃが、それを運んだアンタもえれえこってしたな、とかなんとか地迷い方言を云うてる間に、その桃がな、「ズズン」と、ひと回り大きくなったように見えたんですよ。ホントにホント。

「へっへ、爺さん、ビックリしたじゃろ」「わたしもな、拾ってきたときはまあまあ抱えられるほどやったんじゃが、爺さんがけえってくるまでに、もう3倍くらいに大きくなったんじゃよ」。ほえ~!じゃあ、どこまで大きくなるか見てみようか、と音声言語にする前に、「この桃に、耳をくっつけてごらんな。なんだか話し声みてえに聞こえるじゃねえか」と、もう耳をつけていた。
 アメリカ軍がUFOの写真を公式に発表した。話の続きは、また宇宙年月の{1-tsuka}にね。

つながる風景

秋のカフェテラス  ペン・水彩

今日、ひとに勧められて、埼玉県春日部市まで中村桂子氏の講演会を聞きに行ってみた。生命の歴史と地球環境をひとつにした「生命誌」を提唱している。もともとは生物学者である中村さんの生命誌から見る環境論を、優しい口調で語られた。

すべてのことはつながっている。今ここに存在しないものも、かたちを変えて繋がっている。時空を超えて、とはよく使われる言葉だが、それは文字通り事実だということ。

「分からないことは面白い」とも中村さんは言われた。ひとはまさに一歩先の自分が分からない。わかっているようだが、無数の選択肢が目の前にある。

ルーティン

        「顔の中の緑」習作   水彩

ルーティンというのがある。一定の動作を定常的に繰り返すことを言う。朝起きて顔を洗い、ご飯を食べ、歯を磨く。毎日その動作を繰り返すことで習慣化し、そうなることで安定した一日のリズムを作れたり、精神的な安定の基礎になったりする。

朝、学校へ行き、いろいろな科目を勉強して帰宅することも学生時代のルーティン。自分で目標を決め、毎日何Kmか走る、毎日(でなくとも継続して)何かを勉強するとか、職人が一定の時間、同じような作業を繰り返すことがルーティンだが、完全に同じことを繰り返すということではなく、その間に微妙に異なることが入りこんで、変化をつけ、その変化への対応力がついていくことでもある。

そういう風にルーティンというものを捉えると、何かを身につけるにはルーティン無くして不可能だ、という気持になる。「継続は力」とはよく聞く言葉だが、「継続させる力」もまた別に必要だと思う。メインエンジンを起動するためのセルモーターのようなもの、ルーティンにはそういう役目もあるような気がする。
 繰り返すことで、一連の作業、行動が半自働的に繋がっていくようになる。その上で、意識的に何かを継続すること。一見偶然にできたようなことも、掘り下げてみれば、そういったある種の継続が底辺に在って、そこに瞬間的な閃きが追加されてできているようにも思える。結果だけ見れば簡単なことのように見えても、簡単なことなど実は一つもないのだという思いに至る。

逆に考えれば、何か身につけたいものがあるならば、ルーティンが欠かせない、習慣化することが不可欠だということになりそうだ。「継続は力」はたぶん正しい。ただし、ただ続ければいいというものでもないだろう。間違った歯の磨き方がかえって歯を傷めるように、間違ったルーティンは時には害にもなり得よう。正しい磨き方を知ること、それが基礎であり、教育で行われるべきものなのだろう。
 とはいえ、それもまた新しい知見などによって日々更新される。ルーティンといえど、またそれに従って日々更新され続けていく。とすれば、まさにそれは人生そのものといって過言ではないかも、だ。一朝一夕にしては、何ごとも成し得ない凡人も、正しいルーティンをすることでそれなりのことはできるのかも知れないが、それができないから凡人というのだろうね。