Apple-no.8

「Apple-no.8」 F6 oil on canvas 2019

今年のスポーツの話題といえば、半分以上は「ラグビー」に手が挙がるだろう。珍しく私も試合結果をパソコンで検索するほど引き込まれた。ラグビー人気はW杯が終わった今も続いているらしく、それが日本のスポーツの、じわっと前近代的な風土を吹き払ってくれたらいいと思う。

時事的な話題に迎合したと思われるかも知れないが、その話題を自分の絵に「織り込んで」みた。ラグビーで「no.8」と言えば独特の個性的ポジションであり、フィールドに立つ15人のポジション(役割)のうち、番号そのものがポジション名になっているのは、このno.8(エイト)だけ。「8」はその意味で描き入れた。

にわか勉強だが、ラグビー は15人のうち8人がフォワード(スクラムを組む)、残り7人がバックス(攻撃中心)になる。4人、3人、1人と3段に組むスクラムの最後尾にいて、フォワード全体をコントロールする役目。人間で言えば中枢神経がno.8、スクラム・ハーフ(no.9=SH)、スタンド・オフ(no.10=SO)の3人で、攻撃陣の「脳」がSOならばその下部神経を束ねながら、同時に試合で起こりうるあらゆることを想定し、体を張って単独にでもそれを切り開く能力を要求される難しいポジション、それがno.8だ(とどの本にも書いてある)。今回のW杯日本代表で言えば姫野・アマナキがそのポジション。

けれど、それを知ったからno.8にしたわけではないし、その役割の何かを象徴させようと思ったわけでもない。番号そのものがポジションになっていることが唯一の理由。余談だが私の高校もラグビー が盛んで(決して強くはなかったが)、クラス対抗のラグビー 大会があり、私もラグビー 部の簡単な指導を受けてそれに出場したことがある。それ以上の経験はないが、結構面白く感じ、それ以来(薄いままだが)興味を持ち続けてきた。あの時、自分のポジションはどこだったか思い出せないが、とにかくスクラムにはいた。一番脚が早かったが、なぜかウイング(WTB)にはならなかった。

Apple 3

「Apple」 F4 tempera-oil 2019 (unfinished)

人が見たら、取り憑かれたように「Apple」を描き続けているように見えるかもしれない。確かにここ3ヶ月ほど集中的に描き続けてはいるが、取り憑かれているわけではない。この集中は制作上のいろんなケースを想定しながらの、いわばケース・スタディというか、思考の洗練度アップのための期間だと考えれば解りやすい。

若い頃はこんな描き方はしなかった。思いつくまま描けば、それがベストだった。次々と溢れてくるアイデアに制作が追いつかなかった。今もアイデアは浮かんでくるが、なんだか昔の焼きなましのような感じもする。一巡も二巡もしてしまったのかも知れない。ならば、逆にじっくり一つのアイデアを深くしてみよう、深くできないときは(職人的だが)完成度を高めるとか、そんなふうに考えている。

最近、絵というものは一枚で完成するものではなく、結局一生描き続けた全ての絵のトータルとして、一枚(?)が終わる(決して完成とか、その人の世界などと簡単にいうことはできないが)ようにも思えてきた。大きな木の、葉っぱ一枚一枚が絵だとすると、枝だけでなく幹も根っこも必要。しかも一定の時期には葉を散らし、新しい葉を作りながら少しずつ成長する。そうして太い枝と、無数の葉を持つ大きな木になり、やがて枯れていく。その全体もまた一枚の絵(映画の方が近いか)、そんな感じ。

この絵はテンペラで描き始めた。小さいし、テンペラのまますんなり終わってみようと思っていたが、中心部の茶色(ここはその上に何度も白を重ねていくつもりだった)が妙に美しく感じたので、そのまま残すことにした。そこから方針が変わり、逆に周囲をアキーラで厚めに白くした。背景の黄色はテンペラの茶→テンペラの黄→油彩の黄→テンペラの黄と繰り返している。途中に油彩を挟んだところが経験によるもの。白は油彩でほんのり赤みを帯びた感じにしようか考えているが、元々のアイデアはそのようなニュアンスを拒否し、あくまでフラットに描くつもりだった。なぜ考えを変えたのか、その理由も、そのこと自体の是非を考えることも絵の大切な要素だと思う。

クリスマス・イブ

「Apple」 F6 tempera 2019

昨日はクリスマスだった。さらにその前日のイブの夜、子どもが大学から帰ってきたのが11時に近かったので、その前に仕方なく夕ご飯を二人で食べてしまった。料理下手の妻にしては、あれこれ工夫して作ったクリスマスのご馳走の方には手をつけず、テーブルに冷えたままにして妻は疲れて寝てしまった。

私は車で駅まで迎えに行く。帰宅後子どもはゴソゴソとどこからかカップラーメンとスナックを引っ張り出してきて、それだけを食べ、せっかく作ったものには手をつけないまま、彼もまた疲れてその場に寝てしまう。私は彼が起きるまで(あるいは彼を無理やり起こすまで)アトリエで絵を描くか、しばらくパソコンで作業する。若い人のいる家庭では珍しくない情景に違いない。