かくれんぼ

今の子どもたちは鬼ごっこやかくれんぼなどするのだろうか。特に調べてもみないが、そういう子どもどうしの関係も、安全で未知の場所(大人からみれば多愛ないが、子どもにとっては十分ミステリアスな)もなくなってしまったのではないか、と勝手な想像をする。

私の子ども時代は毎日、そうした遊びで毎日が暮れた。子どもも多かったし、空き地は有り余っていたし、安全で未知の隠れ場所など無数というに近かった。草むらに隠れてみたはいいが、周りをよくみたらそこら中に蝶のサナギがあって驚いたことや、弟が隠れた場所で眠ってしまい、いつまでも出てこずに大騒ぎしたことも思い出した。

かくれんぼではないが、私を探すための捜索隊を出されたことが二度ある。一度はたぶん中学生2年生の冬。ウサギわなを仕掛けながら、つい遠くの牧場のある山まで行ってしまった時のこと。見晴らしのいい頂上近くに立つと、遠くに雪雲が発達しながらこちらに近づいてくるのが見えた。腕時計など持っていなかったが、すでに午後3時は過ぎていたと思う。

「吹雪になる」と直感した私はすぐスキーで斜面を滑り下り、一目散に帰り道をとった。遠くまで来過ぎたことを一瞬後悔したが、グズグズしている時間はない。

家からそこまでは、夏場でも普通に歩いて3時間以上かかる。下りで、スキーを履いているとはいえ、雪雲に追いつかれるのはすぐだった。半分もいかないうちに雪が降り出し、そのせいでいっそう暗くなり始めた。次第に吹雪になり、そのうち自分がどこをどう歩いているのか分からなくなってきた。

辺りが一層暗くなり、吹雪も強くなり始め、私はかなり焦っていた。吹雪の息が切れた一瞬、遠くに水銀灯の光がチラッと見えた(ような気がした)。家への確かな道を辿り始めてから、心配した両親が依頼した捜索隊のライトと出会った。彼らに叱られながら午後8時頃帰宅。吹雪は止みかけていたが、集落からポツンと離れた我が家の辺りはもう真夜中のようだった。父は「早く飯を食え」とだけ言った。ゴーグルや毛糸のヘッド・キャップを途中で失くしたことに初めて気がついた。

北風好き

今日(10月5日)も暑い。10月というのに埼玉31°〜32°Cの予報が出ている。「季節外れの」との形容詞つきだが、昨日も、その前も連日30℃近かったのだから、もう「季節外れ」などではなくなっている。けれど今朝になって風が昨日までの南風から北風に代わり、日差しの強さの中にも爽やかさが混じってきた。やっと秋が近くなってきたのかと嬉しい。

埼玉でも近年では夏と秋しかなくなってきた(と私には感じられる)。私にとって冬のイメージには雪や氷が不可欠だから、埼玉の冬は晩秋のイメージを越えない。気温もそんな感じだから、雪国用の暖かい衣類はどれも出番なく、数年前に全て処分してしまった。

ネコ好き、犬好きが分かれるように、夏好き、冬好きも分かれるらしいが、データ的には日本人の大方は夏が好きらしい。「明るい」「眩しい」「暖かい」「熱い」人・心などがプラスイメージで捉えられるし、「冷たい」系関連語の多くはその逆の意味を持たされているところからも、多分そうだと思う。もちろん程度の問題で、猫好きだからといって、犬を虐待するわけではないのと同じこと。

私は夏より冬が好きだ。特に雪が降り始めるとワクワクして、じっとしていられない。その点ではきっと猫よりは犬に近い気分。現実には仕事ができず困ったりするのだが、好き嫌いは別問題。肌で感じる引き締まった空気感が好きだし、モノクロに静まった風景は本当に美しいと感じる。でも、それは本当は冬好きというよりは北風好きというべきなのかもしれない。決して冬の「厳しさ」が好きなわけではなく、ほどほど外で遊べる程度の寒さが好きなだけだから。

ルーティン

夢の中の林は枯れているのか、新生なのか、よく分からない

ルーティン(routin)とは個人的、習慣的で、仕事の前、仕事中に行う自分なりの段取り、流れのポイントとなる具体的なアクション、のようなもの。癖にも近いが、無意識な癖とは違い、意識的なものだ。2015年ラグビー・W杯で五郎丸選手のキック前の独特の指の動きが、「ルーティン」という言葉とともに日本の小学生の間でも流行した。

気がつくと、私にもたくさんのルーティンがある。その一つは、目覚めてもすぐには起きないこと。何もしない。目覚めの最初に頭に浮かぶ言葉、イメージを最も大事にする。メモを取ったりはしない。空想が広がり、1時間以上そうやっている時もある。

夢を見ることは大切だ。「夢を叶える」とかいう、その夢ではない。毎日見る夢、努力などとは無縁の「ただの夢」。脳の中では、覚醒時と睡眠時では働き方が違うらしい。何日もかかって苦しんでも結論の出ないことが、目覚めの瞬間にすんなり答えが出ていることがある。何度もそういう経験をして、以前はメモ帳を枕元に置いていたが、メモ帳を手に持ったり、ペンを持ったりしているうちにフッと消えてしまうこともままあり、じっとしていることに落ち着いた。

何にも浮かばない時は仕方がない。ヒョイと忘れてしまうこともしょっちゅう。そんな時はもう起きるしかない。血圧を測り、腹筋と脚の筋トレを60〜100回くらいずつやると程々に汗をかく。お腹も空いてくる。ぬるくなったお茶を一杯飲んでから朝食。50g(茶碗に半分くらい)程度のご飯に納豆1パック、うずらの卵2個。ヨーグルトを300g。朝食の間に頭の中で段取り。仕事を始めながらコーヒー一杯。一年中朝はこの繰り返し。こちらは立派な?ルーティンと言えるだろう。

何もしない、というのは本来ルーティンと言うべきではないかもしれないが、元々はメモを取るというアクションが発展?したものだから、この際は赦してもらいたい。ルーティンはいろいろな状況に応じて変わるものだ。目覚めたら読書、それから小一時間勉強して…というルーティンが私にあれば今頃はきっと…。「良い習慣を身につけましょう」と子どもの頃に教わったが、私には身につかなかった。