CGスケッチ

「マイ・カメラ」(CGスケッチ)  30 Aug 2021

30秒のコマ送り動画で、動画撮影用にセットしたマイ・カメラのCGスケッチ。実際にかかった時間は2時間弱。意外に時間かかりました。スケッチブックに鉛筆+ペンなどで描いた場合と比べ、どちらが早いかは「微妙」。早さを別にすればそれぞれの利点は明らか。CGは他の媒体に利用できるし、スケッチブックなら確実に手もとに在る。

それなりに一生懸命描いているとはいえ、後で見直したときに、ここはもう少し描き込みたいとかあるのが普通だと思う。そんなとき、後からいくらでも描きなおし、加筆可能なのがCGのすごいところ。でも、CGで描いたことのない人には、たぶんその「すごさ」がたぶん伝わらない。実際に CGスケッチの体験をしてみるしかないが、それなりに高価でもあるし、パソコンに苦手意識のある人(わたしもだ)には、抵抗感もあることは理解できる。

このスケッチは、右側窓からの自然光。スタートは遅く、午後3時ちょうど。ライトは左なので、スケッチを終えるまで点灯できない(光線方向が真逆になる)。夕方の自然光の減衰を考えると、かなり急ぎ目で描かなくてはならない(明日にすればいいだけなのだが)。「日没は6時30分ちょっと前」と頭にタイマーをセットする。

最初の3秒間。「初めは大雑把に全体をくくるんだな」と見て貰えれば嬉しい。

「思いつき」というか

Apple and a book 2021

最近、思いつきだけで絵が描けなくなった。以前は絵の具をただ塗りたくっているうちに絵が勝手に生まれてきた。何かが見えてくるまで、塗りたくり、絵の具が厚くなると削ったり、洗い流したりして、何かが生まれてくるまで待っている。時間がかかることもあれば、次々とイメージ浮かび、キャンバスの数が足りなくなることもある。

突然、画面に人物や風景や静物などの断片がヒョイと見えてくる。それをつかまえて描き始めるから、ゴールのイメージなどあらかじめ想定できない。モノがすっかり姿を現すと、そこで初めて「このあとどうしようか」と、ゴールのことを考える。場合によっては出現した人物に小さくなってもらったり、右や左に移動してもらわなければならない。とにかく、何を描くのか自分でもわからない、そういうめちゃくちゃな描き方だが、聞いてみるとそういうタイプの人は案外いる。30年くらいはそうやって描いてきた。

高名な画家の死後、遺されたスケッチやデッサンなどを示しながら「こんなに努力していたのです」的な解説を今でも見かける。それはそれでいいのだが、「そういう努力をしないのはダメだ」的な「教訓」とすることには異議がある。運慶とミケランジェロがたまたま同じことを言っている。「木(石)の中にすでに彫刻が埋まっている。わたしはそれを掘り出すだけだ」。それを読んだとき、わたしも全く同じ感覚を持っていたことに驚いた。絵の具を塗りたくるとき、塗るというより絵の具で表面を掘り、削っている感覚だった。

いまはそういう描き方はしていない、というより出来なくなった。最初に「○○を描こう」と思う。そしてその中の3つほどの要素に優先順位をつける。1はこれが無いとその絵に意味がなくなるというほど重要なもの、3はなくてもいいが、あるとふくらみがあるかな、という現実的な「欲」。2はその中間。だから、下描きもするしエスキースもする。かつてはそういうものは全くしなかったから、ほぼ別人になった感じがする。けれど、エスキース通りにできた絵は「死んだ絵」になってしまう。ひらめきというか、思いつきというか、それが無いと、絵の心臓が動き出さない。それが降りてくる瞬間を待つのは今も変わらない。

窓辺は楽しき「地獄」かな

我が窓辺は花盛り

我がアトリエの窓辺はサボテン類で賑やか。肥料もやらないのにどんどん大きくなる。次から次へと花も咲く。サボテンたちの生育環境に合っているのだろう。それとも彼らがうまく合わせているのか知らないが、一見小さな楽園である。

けれど我が窓辺は陽射し厳しく、押し合いへし合いの場所取りにも、毎日しのぎを削らなければ生き残れない。戦いに敗れたサボテンはすでに幾つも姿を消した。勝っても、調子に乗って伸び過ぎれば大魔王(わたし)によって引き抜かれ、ポイ捨てされてしまう。無慈悲な生き地獄なのだ。