西洋梨と杜若(かきつばた)

西洋梨と「かきつばた図」のキャンディボックス

教室でのデモ制作。今年もぼちぼち西洋梨のシーズンになってきた。何度も何度も描いているモチーフだが、飽きるということは(少なくともわたしには)ない。毎回それなりの課題が現れ、いつも自分なりの新しい答えを求めていくからだろうか。

それでも、毎回ちょっとずつモチーフのバリエーションなり、表現法のチャレンジなりの変化が欲しいのは、自分もまた見る側でもあるから。今回は普段はパソコンの前にある、折り紙のキャンディボックスをアクセントに置いてみた。色合いも良く、適当な技術的課題もあり、楽しいモチーフになった。ただ、少し細かいことをいうと、これが何であるか絵からは分からない。「キャンディボックス」という名前も、特にそういう用途があるわけでもなく、ようするにただの紙の箱をわたしがそう呼んだだけ。紙製かどうかも絵を眺めただけでは判別できない。技術的課題というのはそのことを指しているのだが、どうやらそれはクリアできていないようだ。

この六角形の箱は、俳句の仲間のAさんに句会の時に頂いたもの。Aさんは折り紙をよくされ、施設などで指導することもあると聞いたような気がする。折り方を見た時、これはオランダ・ダールマンズのワッフルボックスと同じだと思い出した。中身よりこの箱(の折り方)に惹かれて田舎へのお土産に買ったことが何度かある(ただし、日本で)。紙には尾形光琳の「国宝・杜若(かきつばた)図屛風」のプリント。蓋つきになっていて手が込んでいる。

水彩画(特に小品は)紙の白を残すのが大事だとわたしは感じている。白は(黒も)すべての色を引き立たせる、極上のスパイスだと思う(油絵ではキャンバスの白を残しても全くその効果がないのは不思議なこと)。ただ、時間が経って紙が黄ばんでくるとその魔法が解けてしまう。この絵のように白の部分が広い絵では、額に入れるガラス、アクリル板には紫外線カットのものがおすすめです。

青いカモメのスケッチ会

駅前:午前10時スケッチ会スタート
野田市内:終了直前14時頃

青いカモメの絵画教室では、自由参加で千葉県野田市でスケッチ会をしました。参加者は20名。風もなく、晴れて気持の良い日和(午前中はひなたでは少し暑いほど)。

野田市といえば醤油の町、キッコーマンの企業城下町です。これを描かないと野田市を描いた気持になりません。でも、前半は市の観光名所的なところに目を奪われて、つい歴史的な建物の方に行ってしまいました。お昼は現在は市民会館になっている、キッコーマンの創業一家の旧宅で各自の弁当を食べた。個人の居宅としてはとんでもない広さと造りで、往時の豪勢を感じられたのは良かった。

自分としては、今回はカモメマンになってスケッチ会のビデオを作ろうと思っていたが、スケッチ開始と同時に全員がパアッと散ってしまったので、いきなり目標達成絶望的という状況になってしまった。誰がどこにいるか全然分からない。三脚を持っていったのでそれをセットすれば自分のスケッチビデオを撮影することは可能だったが、そこまで腰を据えて描きたい場所を見つけることが出来なかった。

午後になって、何の成果もないとちょっと寂しいかなと、めぼしいところを漁り始めた。それが下のスケッチ。この1枚はとりあえず今日のベスト。まあ、どこでもそうだが、初めて行って、いきなり良いスケッチを望む方が虫が良すぎるというもの。失敗と反省を繰り返ししつつ、2度3度とでかけてやっと描くべきモノが向こうから見えるようになってくるものだ 。今回も事前の下調べがあったから、たとえ満足な成果に結びつかなくてもスケッチを通して一つのイメージを掴むことができた。今回はこれで十分。これを繰り返すことが大事なんです。

藤澤伸介個展②:画家としての彼

①個展案内状:地図まで手描きすることも多い
②四角の画面でないからこそ視覚も躍動する

 

③紙を切る前に色を塗っている。そこがすごいところ

先日紹介した「藤澤伸介個展」への追加。前回のブログでは「画家としての藤沢伸介」にはスペースの都合で触れなかったが、わたしだけでなく多くの絵を描く人にとって示唆に富むと思い、以前からそのことについて書く必要を感じていた。

①彼の個展案内状はいつも手描きふうだ。地図も手描きであることの方が多い。たくさんの画家からたくさんの個展案内状を頂くが、描くのが仕事であり、描くのが何より好きなはずの画家たちからの、このようなものはほとんどない(わたしがする場合も含めて)。「絵を描くのが好きだよ、楽しいよ」と、案内状で最も大切な内容をこれ一枚できっちり示している。読むのではなく見る案内状であり、まず第一歩からして絵画的だ。

②絵はキャンバスに描くものと思いこんでいる人はさすがにもういないだろうが、浜辺の砂に描いた絵だって、空中に指先で描いた絵だって絵なのだから、これは当然過ぎるくらい歴然とした「絵画」形式。でも、そういう理屈は置いといて、この、一見「子どもの切り紙」ふうの「見せ方」が、じつは彼の隠された自信、タダ者じゃないとわたしは感じる。「現代絵画」はよく解らない、と多くの画家や評論家たちでさえ内心は感じていると思うけれど、この簡潔な表現そのものがまさにそれではないだろうか。画廊を出て、一歩街へ出てみるとそれがわかる。

③(文才があれば)この絵一枚で一片の小説が書けるハズ。ここには彼の作家としてのこれまでの人生が(軽々しく言ってはいけない言葉だと思うけど)詰まっている。中央のカエルに描かれた色や線は、カエルのかたちにカッティングされる前に施されている。つまり、カエルのかたちになるかどうかすら分からない時点で塗られた色、線だ。それを最終的にカッティングして、こんなかたちに「なりました」って、偶然と必然を一瞬で融合させるその凄さが、わたしの想像を超えるんです。そしてそれこそ「絵というもの」だと、わたしの胸は震えるんです。