Greta ThunbergさんのSpeech

先日の国連でのグレタ・ツュンベルク(Greta Thunberg)さん(16歳、スェーデン)の国連でのスピーチ以来、NHK始め日本のマスコミがさかんに取り上げ始めている(それ以前にも単発的に取り上げてはいるが)。インターネットでニュースを見ている人には今更だが、取り上げないよりはいい、と思う。

ただ、取り上げ方にいささか問題がある。彼女の主張を一言でいえば「地球温暖化への『若い人からの最後通牒』」である。本来は彼女の言動の示す内容をこそ取り上げるべきだが、(日本の)マスコミが取り上げたい話題はもっぱら「スピーチの周辺」らしい。彼女の言動に賛意を示す世界各国での数百万人のデモのニュース、彼女自身のノーベル平和賞(候補)の話も本質的なものではなく、ましてや小泉環境大臣の「セクシー発言」、トランプ大統領の揶揄などのみみっちい話など、同列に話題にするほどの価値もないと私には思える。

ホッキョクグマの絶滅の話ではなく、彼女は「私たち(自身)の絶滅」の危機だと言っているのである。「聞き捨てならない」話ではないか?「(大人たちは)金の話と、永遠に経済成長が続くというおとぎ話」で(自分たち若者の)将来を奪い、ツケだけを払わせようとしている、とも訴えている。切実だ。温暖化に関する科学者の報告自体が事実かどうか疑問だという人でも、「(ツケを払わされる)若者たちはそう考えている」「(若者の)信頼に対する裏切りは決して許さない」という主張を、聞こえないふりをして過ごしていいのだろうか。小泉環境大臣の「環境問題はセクシーに(カッコよく)やるべきだ」などという、腑抜けた他人事のような気分とは大違いだ。

彼女のスピーチは5分足らず(しかも中学生程度の英語力で読める)。日本の国会でのだらだらとした、いかに責任を逃れるかに重点を置いた政府側答弁に比べ、なんという簡潔、明瞭、的確さだろう。5分には5分の内容しか盛り込めない。確かに彼女のスピーチには切実さとか、痛みの感情しかないかもしれない。けれど日本の(大臣)官僚答弁の「薄められるだけ薄めよう」という発想とは、正反対の方向を向いたスピーチだとは言える。

「深い」話

「飛ぶ男」2019 F10

「あの人の話は深い」などと言う、その「深い」とはどういうことなのだろうか。人の心理の奥を知っている、という意味もありそうだし、社会的なしがらみや身体と心、心と技術などとの微妙な機微をよく知っているという意味なども含まれるかもしれない。

要するに「1+1=2 」のように明快ではないが、どこかで誰もが納得できる真理につながっている感覚がある。これが「深い」話の第一条件だろう。けれど「混迷」もまた、よく似た感覚だ。あるいは「混迷」と思われた方が真理である場合だってあるかもしれない。それを私たちはどうやって嗅ぎ分けていけばいいのだろうか。

絵画教室で「ヴァリエーション」の話をした。一つのモチーフについて、幾つもの表現(法)を試みるということだ。「思考回路の経験値を増やす」と少し学校風な説明をしてしまった。経験値を増やす、たくさんの経験をすることは時間(時には体力も)もお金もかかり、書物などで勉強するより非効率で、頭の悪い人のやり方のように思う人がいるが、そうではないと思う。

偉人の一生を一冊の本で読むこと、60年、70年とかけて積み重ねた(人生)経験とせいぜい数日の読書とがイコールな筈はない。しかし、もちろん読書が無意味な筈はなく、自分の経験値が大きいほど読書から得られるものも大きいと感じるのは普通のことだ。絵画でも、制作経験が有ると無いでは、他人の作品を前にした時の問題意識が違う。「自分はこうしてきた」という経験と、無意識のうちに対照させて見るからに違いない。その対照上のずれが「なぜ?」につながり、その疑問への解決がまた自分の経験になる。そうした積み重ねが、他人である作者の内側からものを見る感覚につながり、他人である作者の経験を取り込むことにつながっていくと考えられる。

少し脱線した。結論から言えば、絵画を「深く」するには「ヴァリエーション」が非常に効果的だということだ。思考回路の経験値を増やすということは視点の多様化(単なる知織化の可能性もあるが)でもあり、その中から一つを選んで実際にやってみるという経験、決断がまた次の視点への契機になっていく。その巡り自体を「深化」と呼ぶのではないか、と私は考えているのである。

冷蔵庫大作戦−2

冷蔵庫チェック表(空欄をできるだけ埋めていく)

それから電機店めぐり、パンフレット集め。とりあえず行き当たりばったりに電機店に行く。早く決めてもらいたい店員からじっくり話を聞く。「考えていた額と全然。買えるものないわー」「どうぞ、気を取り直してご検討ください」。もらったパンフレットを扇のように広げ、夜検討する。家族全員に共通する必要条件はゼロ。要するに決められない。

とりあえず大蔵大臣としては「安い方がいい」。文部科学大臣からは「機能優先」。首相不在の内閣。「安く」「買わないのが一番安いよ」「クーラーボックス生活。被災者の生活を見習え」、「アイスが取り出しやすい機能」などそれぞれいい加減なことを言う。メモを取り、電機店回りだけで数日、数時間ずつ。それが実に疲れるが、貧乏人の買い方としては仕方ない。他のお客は後から来て、せいぜい30分も検討すると結論が出て購入して帰る。実に羨ましい。「この時期ですから、どんどん無くなりますよ」と店員に脅されても、やはり決められずくたびれて帰る。

電機量販店というのは値段横並び。かといって価格協定は法律違反。だから、その店より低い価格で売る店があると、しぶしぶでもその値段に合わせ、自店で売るようにする。「さらにお安くします」「ご相談ください」というのはそういう意味だ。だから、メーカーと機種の候補を絞ったら、あとはどこがいくらで売っているかをチェックし、「ご相談」の手元資料を手に入れなければならない。交渉材料がなければ言いなりに従うしかないからだ。

ネットで検索した資料をもとに、どの店で買うかを検討し(どの店で買うかも案外重要な気がする)、いざ店頭へ。でも必ず買うと決めているわけではない。横並びに対応してくれないかもしれないし、別な条件が出てくるかもしれない。こちらは資料をひっ抱えていくが、実際には店員の方はすでにそんなものは知っている。彼らは百戦錬磨のプロなのである。そこからの交渉をベテラン店員は楽しんでいるかのようにさえ感じられた。値段はこれくらい、下げるのが無理ならポイントで修正、保証内容の再検討などは、生徒の「勉強」への先生からのご褒美のような気さえした。

「安く買えたか?」実際は考えていた額より多く出費した。プロの術中に嵌ったかのようだが、ネット最安値で、初めはつけないと言われたポイントを10%つけ、保証も納得したうえで購入できたのは、結局お店側にとってもよかったのではないか。そのあとの手続きも気持ちよくやってくれ、配送も最短日より5日も早かった!

冷蔵庫を台所に設置する経路を作るための、室内の片付けが大変だった。想定はしていたが、丸一日。経路がきちんと確保できていたお陰で、冷蔵庫の到着から、古い冷蔵庫の引き取り、新しいものの設置、納品のサインまでせいぜい15分。二人の若い搬送業者は、今日も納入がびっしりで、夜まで時間との勝負だと言っていた。片づけの苦労が幾らかは彼らに時間の余裕を与えたかもしれない。