発想の転換、とはいうけれど

秋のトランペット(水彩 F6)

「発想の転換をしなくっちゃ」と、人に言われるまでもなく意識し続けてきたつもりだが、もう開き直りこそ発想の(再)転換かもしれない、とさえ思う昨今。でも、ちょっと深く考えてみると、まずやってみて、その経験から学ぶという、地道な方法しかないように思えてくる。

「やってみる」という単純なことが、歳をとるとできなくなってくる。それまでの経験から、「きっとこう(なる)だろう」が、始める意欲を押しとどめてしまうとはよく言われること。たぶんそうなのだろうが、一番の理由は「あえて」やらなくても困らない、ことではないかと思う。つまり、わざわざリスクを犯す必要を感じないということ。

いくら歳をとったって、好きなことは理由がなくてもやるにきまっているし、必要不可欠となれば嫌なことでもやるのである。けれど、「やらなくても困らない」程度のことなら、あえてめんどうなことに手を出す必要はない。若い人は好奇心から「必要は感じないけど(人がやるなら自分も)やってみる」。客観視か主観視かの違いがあるかもしれない。

自分のことを考えてみると、他人が案外簡単そうにやっていることでも、未体験の自分にとっては意外に手こずることが少なくなかった。それらの小さなトラウマが先に立って、つい怖気が先に来るようになってしまっている。でも始めて見ると、時間が経つにつれて少しずつ回りが見えはじめ、足場も手がかりもだんだんに解ってくる(気がする)。・・・いやいや回りくどい。要するに、単純に若い人のように好奇心を持つこと、「それ面白そう」というのを見つけるということなんだろうね。