道具を使う動物

「新緑の館」水彩 F4/コットン紙

ナショナルジオグラフィック(通称ナショジオ)という雑誌があります(このブログでもすでに数度その雑誌自体に言及しています)。その2023年7月号(最新号)に、「道具を使う動物」として人間、チンパンジーに続く、3番目の動物として「オウム」が加わることになったと、小さな記事ですが報告されています。

オーストリア・ウィーン獣医科大学での実験が紹介されています。オウムの頭の良さはかなり前から知られているし、道具を使う動物としても、ダーウィンがガラパゴスで確認した、フィンチという鳥が道具を使って木の中の虫をほじくり出す例を含め、たくさんの種類ですでに知られています。

何を今さら、と思って読んだのですが、状況によって「2種類の道具」を「使い分け」、必要に応じて「セットで使う」。これができるのは、これまで人間とチンパンジーだけだとされていたのだそうです。さもありなん。言語能力においても似たようなことがすでに指摘されていて、いわゆる「オウム返し」のようにただ真似るだけでなく、言語の意味性を理解し、応えているとしか思えない、高い知能を示す例がいくつも報告されています。
 ある本に載っていた一つの例として、チンパンジーに算数を教える実験で「two add two equal ?(2たす2は?)」という質問をしていると、隣の部屋にいるオウムが壁を叩き「Four(4)」と答えた、というのがありました。驚いた研究者が数字を変えて試してみてもいずれも正解だったそうです。何度も繰り返し、チンパンジーに数字と数字のあいだの関数(算数)を教えている間に、それをじっと隣室で聴いていたオウムが、その関数を理解してしまったとしか考えられないということですよね。ただのオウム返しとはまったく次元の異なる能力ですよね。そう考えると、そのくらいは当然、本当はもっとすごいんじゃないですか?と言いたいような気さえします。

けれど、では他の動物は頭が悪い、と一概には言えないでしょう。なぜなら、地球上に棲むすべての生物は現在までの生存競争の勝者だけですから。「頭の悪い」(この言い方自体、人間視点一辺倒の偏見ですが)動物は生き残れなかったはずです。
 逆に、人間は頭がいいのでしょうか?戦争は人類進化のための選択肢として、「状況に応じて」「使い分け」ているんでしょうか?数学ができる人は苦手な人より頭がいいんでしょうか?馬鹿な人を選挙で選ぶ人はもっとバカなんでしょうか?―済みません、「反省だけならサルでもできる」というかつての「流行語」を思い出してしまいました。たぶん反省さえできないと思いますけど、ニンゲンという動物は。

アジサイを見に行ってきました

アナベルという品種だそうです。大人の頭くらい大きい
木陰には涼しい風も

日曜日、一人で幸手市権現堂で開催中のアジサイ祭り(6月25日まで。期間を過ぎても花は咲いていると思いますが)に行ってきました。気温31℃とかなり暑かったのですが、結構たくさんの人が見に来ていました。

こういうイベントではわたしはいつも花より人を見に行きます。人間観察をしながら、見知らぬその人のストーリーを勝手に想像して楽しみます。すれ違いざまにふっと耳に入る言葉からイメージが広がることも、ままあります。頭に浮かんだ一瞬のドラマを、たいていはすぐに忘れてしまいますけど、ちょっと文章化してみようかなと思う時もたまにはあります。
 あるいは顔のコレクション。ただし、顔の写真は撮りません。あくまで記憶の中だけにします。顔や表情の観察は人物画を描くときには少なからずプラスになるんじゃないでしょうか。コロナ以来、コレクションにはマスクがとても不便です。

もともとは絵になる構図を探すのが主目的ですが、途中から腰が疲れてきて、100枚ほど写真を撮って帰宅しました。10枚くらいはトリミングすれば使えそうです(たとえば下の写真はどこかのシーンに使えそうに感じます)。まあ、暑い中を出かけただけの収穫はあったことにしておきましょう。

初夏

描き始め。完成がこれより良くなるという保証はどこにもないんですけどね 

「初夏」水彩 ファブリアーノ(コットン100%)紙

昨日(6月24日土曜日)朝、アトリエの向かいにある神社から神輿が出て、小さな町内を一回りしました。軽自動車に太鼓叩き達を乗せた先触れが、早朝サッと一回りしたあと、若い人たちが威勢よく担いでいきます。今年の掛け声は初めて聞く調子があり、アレっと思いましたが、もしかしたら担ぐ人の顔ぶれが違うのかもしれません。伝統もいいけれど、何かしらちょっとずつ変わっていく、それもいいものだと思います。

「駐車場のある風景」のアレンジです。マスキングの着け方にちょっと工夫し、一部を筆で擦りつけるようにやってみました。その効果はちょっと出ています。

色が少しボーっとしているのはコットン100%の紙だからということもありますが、若干「風邪をひいている」せいもあるようです。「風邪をひいている」というのは、「紙が風化している=湿気に晒されて劣化している」という意味で、水彩を描く人たちがよく使う言葉です。古いスケッチブックでもないし、置く場所には気を遣っていたんですけどね。
 紙が風邪をひいているかどうかは、描く前では見た目ではまったく判りません。ですが、筆を置いた瞬間に??と感じますし、絵の具をおいたあとなら、誰の目にもはっきり判るようになります。返品しようにも、スケッチブックの個別包装を破き、デッサンを描き、色を置いてしまってからですから、もうそれはできない?と諦めてしまっているので、これまでメーカー(販売会社)にクレームをつけたことはありません。けれど、これは本来メーカーもしくは販売店の品質管理の問題で、作家のミスではないのですから、いずれ納得のいくかたちで改善されるべきだと思います。「風邪ひき」で作家に嫌われ、潰れてしまった世界的メーカーは2,3あるようです。
 話が逸れてしまいました。この絵でわたしが描きたかったのは「自動車」です。特定の車種とかへの思い入れではなく、風景の中に「車社会という現在」を入れたかったということです。現代は地球環境に対しての視線は年々厳しくなっています。いずれは自動車などというCO2排出器はなくなるかもしれないという、やや記録的な視線で描いておこうと思ったのです。まだまだしばらくは車が消えることはないと思いますが。

絵としてはあくまで「初夏」の風情がテーマです。車はあくまで点景に過ぎません。爽やかな風を絵の中に感じられたらいいなあと思うんですけどね。