Apples in the Apple

日本人の感情はwet 、湿っている。極めてデリケートな一方、酒のようにその中で酔わせてしまう不思議な力がある。日本人の芸術といえばさらに湿って、酒の中でも濁り酒の酔いのようだ。

風土と言えば風土でもあろう。一方、乾いた砂に象徴される対極的な風土もある。そして、そこから生まれでる芸術のそれぞれの良さを、互いに認めることもできる。でも、よく考えてみると、なぜそのような理解というか、認め合うということが可能なのだろうか。何がそれを可能にするのだろうか。

たぶん造形という機能が、通路のようにその往来を可能にしているものの一つだ。その通路に面してひとつのドアがある。気づかずに通り過ぎてしまいそうな小さなドアだが、そこを開ければ見える世界は意外に広大だ。誰にも出入り自由で鍵はかかっていないのに、気づいてもせいぜい首を突っ込んで覗くだけで、何故かなかなか中へ入ろうとはしない、不思議なドア。

 

「傲慢」の視線 / Arrogant view

ヒトはオランウータンより賢いか、オウムより賢いか。私たちは普段意識せずに動物たちを見下している。私たちはオウムに言葉を教え、彼らがそれを覚えるのを見て満足感を覚える。けれど、オウムが私たちに教えていること、オランウータンが私たちに教えてくれることを受けとめ、オウムやオランウータンが満足できるように私たちはできるだろうか。

おそらく、「世界」と私たちが思っていることもそうなのかもしれない。ヒト対ヒト以外の動物(もしかして植物も)だけでなく、人間という範疇のなかでさえ、人種や地域、地位、経済力の有る無しに置き換えてみると、似たような視線がありそうに思う。

それを「人間の傲慢さ」と指弾することもまた、私たちの誰もがすることだが、だからといって決して謙虚になるわけでも、一歩進んで更に理解を深めようとするわけでもない。要するに口だけなのだ。本当はそれが「傲慢」の本質ではないかと思うのだが。

さて、芸術をこれにあてはめてみるとどうなるか、興味あるところである。

井の中の蛙 / Frog’s in the small pond

展覧会は今日で最終日。疲れもピーク。終了したら作品と一緒に車に乗って帰ってきたいところだが、なかなかそうもいかない。

今回の作品を、もう少し前へ進められそうなアイデアを一つ思いつき、数点の習作を始めた。アイデアは一つの手法に過ぎないが、ゴールのイメージがある以上、まずはそこに辿り着くのが大切だ。そこからしか、その先が見えない、峠道のようなものだから。

20年前は麓の小さな池で、それなりに満足していたらしい、小さな蛙。何を考えたか、池から出て広い世界へ飛び出した。しかも道を間違えたか、どうやら山へ向かっているらしい。山の向こうはともかくも、途中で鳥に食われないように、餌の虫も水も無く、干からびたミイラにならないことを祈ります。