月光仮面は誰でしょう

アンスリウムと水差しの習作

月光仮面は誰でしょう。街中に溢れている、あの月光仮面たち。

サングラスに白い帽子、白マスクに手の指先さえ見せぬ白づくめ。オートバイ姿はあまり見かけぬが、自転車や車を運転する月光仮面はそこらじゅうにいる。時には手に提げたビニール袋から大根を見せ、時には幼児にねだられながらアイスを買っていたりする。月光仮面は誰でしょう。

防犯カメラは街中にあるが、もし月光仮面が悪さをしても、悪い月光仮面と正義の月光仮面とを区別するのは難しいかも知れない。

もちろん、月光仮面は悪さを隠すためにマスクしているはずなどない。悪には強いが、日光や砂嵐には弱いのだ。10年近く同じ職場で働きながら、目の前の月光仮面は誰でしょうと、今も呟いている人がいた。

頑張る栃ノ心

ヴァイオリンと水差しのある静物習作

大相撲夏場所で関脇・栃ノ心の活躍が素晴らしい。特に今日は26回目の対戦で、初めて横綱白鵬に勝利。しかも初勝利とは思えないような、堂々たる力相撲の末の完勝。腕力だけの荒い相撲から、力強く、かつ緻密な相撲に大転換した。

勝ち方を覚えたんですね、というのは解説ではない。どうやって勝ち方を覚えたのか、を解説して欲しいのだが、解説者自身にそういう経験がないから言えないのだろう。地道な努力、それも誰だってやっている。けれど栃ノ心のようにはならないのだ。そこが知りたいではないか。

(たぶん)彼は「自分の体」、「自分の力」が判ったのではないか。相撲のセオリーや、これまでに染み込んだ常識をもとに成長しつつも、それを文字通り「脱皮」し、捨てさることができたのではないか、と思う。本当の意味で自分を知ることで、無心になれた。それが今の栃ノ心ではないか。でも、人は弱い。一歩進めば再び自分を見失う。無心のままに相撲を取り続けて欲しいものだ。

動詞としての「造形」

バイオリンと水差しの静物習作

造形とはこういうことだろうか。

綺麗な和菓子。上品な薄い衣を透かして見える、選び抜かれた名産地の粒あん。美しい菓子皿に添えられた、小さめの漆塗りの匙。晴明の窓から新緑の葉影が落ちている。

それが「造形」だとしたら、眠い。でも、考えてみると確かにそういう面も否定はできない。でも、なぜ眠い?

要するに「造形」が動詞なのか、名詞なのかの違いだろうか。求めているのは「動詞としての」造形。そうでなければ、絵画は美しい和菓子と同じ意味。上の絵は、まだ駄菓子だな。