余った時間 / Spare time

戸口のヌード / Nude front of the door

世界中で「テレビを見るなど、ぼうっとしている」時間は、集めると一年で一兆時間になるらしい。その時間をネットでつないだら創造的な時間になるのではないか、というような記事を読んだ。確かに、一兆時間という天文学的ともいえる時間が、無駄に流れてしまうならばいかにももったいない。もっともな提案だという気持ちになる。

1609年にケプラーが、太陽系の惑星が太陽を中心とした楕円軌道を描いているとした論文を発表したとき、それは当時の社会にとってどんな意味を持てたのだろうか。400年後の現在から見ればいかにも重要で、その後の天文学に偉大な貢献をしたことは間違いないが、当時の人々がそれを創造的だと評価できたかは疑問だ。仮に、もしもケプラーがその法則を発見する直前で亡くなったとしたら、ケプラーが考え、計算に没頭した時間は無駄な時間と呼ばれてしまうのだろうか。

「テレビを…」についてケプラーまで飛躍しすぎた。一兆時間をネットでつなげば凄いことが出来るかもしれないし、単なる一兆時間の烏合の衆で終わるかも知れない。ただ、みんなが「ぼうっとする」時間を捨てて一斉にネットにつながったら、確実に創造的な何かが抜け落ちてしまうことだけは間違いない。ヌードを描きながら、全く別のことが突然頭に浮かぶことだっていくらでもあるのだから。

 

 

天使と悪魔が同居する / Angel lives with Devil

東通・岩屋の風力発電/Air driven generator

下北半島・東通村、岩屋地区の風力発電の風車のスケッチ。津軽海峡を見下ろす台地状の山の上に、現在の日本で最も集中的に同目的の風車が立ち並んでいる地区だ。福島原発事故以来、急に脚光を浴び始めた「自然再生エネルギー」の象徴でもある。ここから南に十数キロ、そこには今や悪の象徴とされつつある、原発(Higashi-dori Nuclear power plant)がある。東通村はいわば「天使と悪魔の同居する村」だ。

先週ある本を読んだ。「森林飽和」(太田猛彦、2012.NHKブックス)。太田氏は、「自然は自然のままにしておくのが一番良いという考え方」を捨てるべきだと言う。里山の「大きな木を伐ってはならない」という考えを否定する。「日本の森林は既に飽和状態にあり、この飽和状態を放置すること自体が新たな自然?災害を招く」から。現在の感情的な自然志向の高まりに、ある意味で水を差すようにも見えるが、実際に山や海岸をスケッチしながら歩くと多くの点で納得がいく。

そのような巨視的歴史的な目でエネルギー問題を考えると、いきなり原発か自然エネルギーかの二者択一を迫ることの危険性が感じられる。「天使と悪魔の同居する村」は木を見て森を見ない、現代日本の思考の縮図とも言えるのかも知れない。

 

原発と風車 / N-power plant and Fan-driven generator

東通・岩屋の風力発電/Air driven generator

最近、右耳が聞こえなくなってきた(左耳は正常)。特にヒトの会話音域での聴力低下がひどい。原因はいろいろあるだろうが、結果だけから見ると、くだらないことを聞かずに済んで、良いことなのかも知れないと、半分本気で考えた。

スケッチは青森県・東通村岩屋地区での風力発電用風車と津軽海峡と大間崎方面を望む風景(大間崎はスケッチに見える半島の、さらにその奥。この日肉眼では見えなかった)。現在、この岩屋地区は日本で最も発電用風車が集中している場所だ。風車の、地上から羽根の付け根までが60mちょっと。羽根の直径がやはり60mを少し超えるそうだから、どれかの羽根が垂直に立った時、その先端の地上からの高さは約100mに及ぶ巨大なものだ。そばに行くと低周波から、五感に感じる様々な周波数の音が身体を震わせる。

ここからほんの十数キロ離れたところに東北電力・東通原発がある。同じ村内ながら、一方は大きな期待を担いつつある自然再生エネルギーであり、一方は今や悪の権化と見做された原子力発電所だ。天使と悪魔の同居する村と言えばいいのだろうか?正直なところ、この矛盾だらけの日本で、何でも依存症候群の日本人(私も含めて)のこの単純な二元論には、私はとても不安でついて行けない。2030年代原発廃止をぶれずに推進すると言った野田さんが、一週間も経たずに自らぶれてしまったし、あれほど騒いだ尖閣問題も、中国のデモがちょっと鎮静化したらもう報道は数百分の一になって、紙面から消えてしまった。竹島のことなどまるで初めから無かったかのように見える。

そういえば、左耳の耳鳴りも気になってきた。こんな話を聞かずに済むように、脳が自己防衛を始めたのかもしれない。