「マスク」は鼻と口だけに掛かっているわけじゃない

「Green apple」(unfinished) 2020

新型ウィルスによる肺炎患者が中国・武漢で発生したと報道されてから一ヶ月。最初は生鮮市場の関係者が5〜6人、まとまって入院したということで、食品からの感染ではないかと消毒などする映像が流されていました。

それがあっという間に大流行し、一千万人以上の人々が暮らしているという大都市、武漢の事実上の「封鎖」、湖北省からの移動禁止。同省滞在者の各国への入国拒否など中国国内だけでなく、人権問題を含む国際的な、感情的とも言える反応を引き起こしているらしい。ラジオ、テレビ(は報道の仕方自体が少し異常だが)では、ネット上でマスクが異常な高値で売られているなどの関連ニュースが、連日トップで報じられています。

クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」号の横浜港への寄港・検疫をめぐって、日本政府の危機管理能力のなさが次第に分かってきました。首相をはじめ閣僚たちに事態を把握する能力や想像力が極端に欠けていることに嘆きと同時に、本当に驚きます。現場任せという言い方はまだ好意的で、要は「対応しています」というポーズさえ整えばよい。そこに真剣さなど全く感じられません。「不慣れだから」とかばう評論家もいますが、事あるごとに世界中に医療チームなどを派遣している日本です。そこからの経験・教訓が、自国の場合にはまったく活かされないということを、納税者としてすんなり諒解すべきなのでしょうか。

各国の人が乗り合わせるクルーズ船などは、国際的な人権問題に特に敏感になる必要があり、そこにこそ政治家の存在意義があるはずなのに、対策会議に3分とか6分とかで退席(その後、経済人との会食3時間)する総理とか(後援会への出席のための)大臣欠席など、国家的優先順位の判断ができない人たちが、「国益」を標榜する内閣を構成しているということになります。もともと日本は「人権」の意識も知識も極端に低い国ですが、まさに政府がそれを「自然体で」立証しているという、前時代的な情けなさが目につきます。

でも、翻って考えてみるとそれは全て私たちの責任ですね。そういう人を選び、そういう政府を今も支持し続けています。でも、でも、でも、それも長期間繰り返された「悪い意味での」教育効果。例えば「個性を伸ばす」というスローガンの下での、「期待される人間像」と「協調性」との矛盾。「批判・批評」と「非難」の区別のできない先生、教育委員会、政治家の存在。「表現の自由」の、「自由」の意味を(できるだけ)小さく限定し、老人(的)にしか理解できない表現を十把一絡げに「わがまま」と見てしまう、私たちの「振幅の極めて小さな」社会。あ〜あ。何だか、道を踏みはずすまいとして、かえって道を閉ざしてしまったような。そういえば、マスクには「呼吸を制限する」機能もあるのでしたね。

魚釣りに行きたくなってきた

「Green Apples」 2020 water color

もう何年も、川へも海へも釣りに出かけていない。川(湖沼)釣り用のロッド(竿)も海釣用のロッドも、何本か階段下のスペースで眠っている。ルアー(魚型の疑似餌)もワーム(虫型の疑似餌)も使わないままのが何種類もある。夜釣り用のリチュウム電池付きの蛍光浮き、ヘッドライト、ライフジャケット、磯用の靴とか…(たぶん)すぐ使える状態に揃っている。

学生の頃によく通った中華料理店(もちろん学生値段)のオーナーは釣り好きで、私のスケッチ用のリュックとイーゼルのセットを釣り道具と勘違いして、「今日はどこで(釣りをしたの?)」と何度も、カウンターの向こうから毎回質いた。今から考えると「そういう「(釣りの)よしみ」だから、この人には特別サービスするよ。いいよね?」と在店中の他の客に暗示してくれていたんだろうと思う。なんて優しい心遣い。当時はそんな心遣いなど深慮できず、「釣りの道具とスケッチの道具の区別も分からないなんて、目が悪いのかな」なんて思っていた。恥ずかしいですが、今になってようやく理解できます。

ある時期の英国では、(男の)子に伝えなければならない「父の義務」は「釣り」(のマナー)だという。「(鱒)釣り」と「(狐)狩」は、「貴族の男児」なら必ずマスターしなければならない「必須科目」だった(らしい)。鎖国で、欧州文化と断絶していた江戸幕府の歴代将軍にも、「鷹狩り」を必須修得科目」としていた事実がある(「偶然」とは言いがたい事例がたくさん)。私はそれを必ずしも肯定するわけではないが、なぜ「釣り」なのか、ぜひその意味は知りたいと思っていた。で、ウォルトンの「釣魚大全」(これは名著ですよ)などを読んだわけです。

「英国から学ぶ必要などサラサラ無い」などと言われれば、無言になるしかない。でも腹いせに、「そんな必要が無い」と断言できる「根拠」を示せよ、くらいは言うのが普通だ。

Yellow Apple in yellow

「Apple」 2020 Tempera on canvas

Appleの連作を続けています。なぜ続けているのか、時々分からなくなりそうになりますが、ともかく目の前にある作品より、もっと面白いものが描けそうな気がして簡単にはやめられないのです。集中して、一気に「もうこれ以上はできない」というところまで続けなければならない、と自分の中の経験が囁いています。

「迷う」ということがあります。一番きついのは「こんなことをやっていていいのか」と不安になる時です。今やっていることの意味がわからない、という時です。不安なのですから、当然自信も失います。けれど、それは大事なことで、確かに苦しいけれど、あれこれ悩み、一歩踏み出してはまたその場で考える。その方が、根拠のない自信満々、何も悩まず手を動かすだけ、というよりはずっと正当で、マシなのではないでしょうか。

この連作を続けながらも「こんなことをやっていていいのか」と時々不安が湧き立ちます。そして、人が何と言おうと、今自分にできることはこれだけ、と思い直してまた続けています。「今できること」とは能力の問題ではありません。描写技術なら、これよりもっと繊細、写実的なことだってできます。そういうことではなく、現時点でギリギリ自分が納得できる方向で最大限可能なこと、という意味です。方向が間違っていたら?それは考えたら切りがありませんし、ここに至るまでにたくさんの論理と直感を積み重ねて探り出した方向のはずですから、間違っていたとしても仕方ありません。それが納得という言葉の、自分にとっての意味です。

Appleはもう少し続きそうです。ワンパターンのようではあるけれど、ワンパターンだからこそいろいろやれることもあるのです。いま大事なことは「他人の意見を聞かない」こと。集中して、思い通りにやることだよ、と直感が囁いています。