骨が好きかも

骨が好きかも知れない、子どもの頃から。今日、突然そのことに思い至った。

アトリエには小さなメスのゾウアザラシの頭蓋骨、インパラの頭があり、二階には大きな牛骨だけでなく、小さなキツネ、タヌキ、貂の頭蓋骨がある。たくさんの貝殻やカニの骨格も、考えてみれば骨だ。

森の中に落ちている鳥の白骨化したもの、砂浜で波に晒されている魚の骨格。気味が悪いなど感じたこともなかった。実際はこうなっているのかという科学的好奇心だけでなく、もう少し感覚的、哲学的な何かをも感じていたのかも知れません。

西原(さいばら)理恵子を読む

西原理恵子さんといえば、ちょっと悪どい顔つきのオバちゃんが、デカイ口を開いて辛辣なセリフ?を吐く漫画を描いて人気(彼女のこれまでの凄まじい人生が映画化されるほど)のマルチ漫画家だ。

今年、「女の子が生きていくときに、覚えていてほしいこと」と娘への餞別?の本を書いて評判になったので、それも含めて数冊まとめて読んでみた。

まあまあ、なるほど、なるほどですが、実際やるとなると大変なことですが、実際やったんですね。凄い。そこから自分の事を考えてみると「全て手遅れ」。絶望しそうだが、それでも人に恵まれてここまで生きてこれた。感謝だなあと、改めて思う。でも、あと10年もっと好きなように生きて、その時点で静かに死んでもいくってのもカッコいいかな〜と思う。その10年をどうやって深く、濃くするか、何だか自分の人生をどうブレンドするかという、ソムリエになったような気がしてきた。

 

国会は小中学生を見習うべし

国会の閉会中審査をラジオで聴いていた。感じるのは、不毛な言葉のゲームだということ。マスコミも、どちらが正当かという報道の仕方だが、そんな勝ち負けより、このような問題が起きないようにするにはどうすればいいか、という方法論を求めて両者が知恵を出し合うことを国民は望んでいる。

ばか丁寧な言葉遣い、わざと中身を無くした説明。それらは国民に判断を委ねる、そのためにきちんと事実を示すという、主権者である国民のために仕事をするという本来の仕事に対する真面目な態度ではない。私たちによって選ばれた議員や、議員や行政機構にではなく国民に雇われているはずの公務員までがそういう態度をとって平然としている。それが私たち国民を、世界に向かって二重に辱めている。

小中学生の学級会では、国会のような態度は通用しない。子供たちの意見は常に建設的だ。ずるをしたり、ウソをつくことが恥ずかしいだけでなく、自分のためにさえならないということなど、子どもたちの中では常識中の常識である。