「聖火リレー」という茶番

一年遅れの東京オリンピック・パラリンピックのためのキャンペーン「聖火リレー」が福島県のJヴィレッジから始まった。福島県から始めたのは、「復興五輪」を掲げた安部前政権が、原発の影響はすべて Under Control だということを内外にアピールするためだ(実際は10年たった今も、デブリを取り出すめどさえ立たないのだが)。

福島県での「聖火リレー」イベントの映像をインターネット上で見た。先頭はコカ・コーラ社のどでかいバス。その後ろに次から次へとスポンサー企業のバスなどが累々と車列をなし、赤い服を着た社員だかボランティアだかが沿道に両手を振って走り回り、立ち並び拍手を送る人たちにペットボトルなどを配りまわる。肝心のランナーがどこにいるのか皆目わからない。いったいこの「単なるバカ騒ぎ」はなんなのだろう。なぜこういうことになってしまうのか。なぜNHKはじめ大手報道機関はこれをありのまま報道しないのだろうか。

理由は一つしかない。オリンピック・パラリンピックは選手やスポーツを愛する人々のためなどではなく、ましてや「コロナを克服した証」などのためでは全くなく、すべてはスポンサーとIOC関係者の利益のためだからである。国民の半分以上が現時点での五輪開催を疑問視あるいは反対し、いくつかの国がコロナ下での開催は選手の健康のためにならないと参加を取りやめているなか、ごり押しともいえる「聖火リレー」の出発と、スポンサー企業のこの限りなくあさましいだけのイベントぶり。「最低でも宣伝費のもとをとりたい」スポンサー企業側の意識、莫大な放映権料を何がなんでも手に入れたいIOCの本音があからさまに現れている。

「聖火」という美しい響きを地に落とし、さらに二重三重に踏みつけるこの醜いイベントは、この上なくスポーツを冒涜する行為だといっていい。それを率先してIOCが旗を振るとは、IOC自体の哲学的自殺行為に他ならない。まあ、そんな哲学など宣伝効果以外に意味はないと悟りきっているのだろう。一番の被害者は選手たちだ。組織委員会とスポンサー、国民とのはざまで、ほとんど本音を言えない状況にあると思う。「聖火」という語は選手にあってこそふさわしい。カネ亡者どもに使わせてはならない。「聖火リレー」ではなく、せいぜい「オリンピック協賛宣伝リレー」のような呼称にすべきだ。そういう状況下で、わたしたちが東京五輪をすなおに楽しむには、自分の脳みそを一度泥水にでも捨ててみるしかない。

「自分磨き」ということば

制作中。これからどうしよう?

「自分磨き」という言葉がコロナ禍下でよく聞かれるようになった。テレワーク(会社と自宅のそれぞれのパソコンをオンラインで結んで仕事すること)などで通勤などの拘束時間が減り、自分のスキルアップのための時間ができたこと。大学生などでは遠隔授業(本来ならこれもテレワークなのだが、なぜかこちらは日本語だ)で、授業時間を自分の裁量で自由にできるようになり、こちらもダブルスクールなどで資格を取ったり、趣味に時間を割くなどできる環境になったことで、自分をブラッシュアップすることを意味する。

インターネット上で見たのは女子大学生の「シェイプアップ」。人気のユーチューバーなのだそうだが、これなど一石二鳥どころか三鳥、四鳥にもなっていそうだ。

けれど、(すべてにおいてそうなのだが)視点がどこにあるかがいつも気になる。スキルアップも会社での仕事のためだったりする。会社の中での仕事をスムーズに回せば地位向上には役立つだろうから、確かに自分のためと言えないことはない。でも、もしその会社を辞めた時に他では役立たないものなら、そのスキルアップは結局は会社のためのものではないだろうか。自分100%に思えるシェイプアップも、美的な基準がどこにあり、なぜそうなりたいのかを考えないと、マニアックなダイエットや筋トレの虜になりかねない。

わたしはどうだろう。コロナ後?に使えるようにパソコンやiPad などにたくさんのアプリをいれ、かなりの時間を割いて使い方の練習をしている。けれど、パソコンが使えなければ絵は描けないのだろうか。iPad などは確かに便利さを感じるが、逆にそれで失うものもあるのではないか。一見するとパソコンができないと困る社会になりつつあるように見えるが、それが「常識」と自分勝手に思い込んでいるだけなのかもしれない。「自分磨き」が「自分すり減らし」にならないよう、よくよく考えなくてはならない。

近くのスーパー閉店

「若い人」 水彩 2021.3

近くのスーパーが今日閉店した。自宅から歩いて10分くらいの一番近いスーパーで、コンビニに近い感覚で買い物に行っていた。十日くらい前から閉店のことは伝わってきていたが、どんな状況かなと夕方覗きに行ってみた。

妻は数日前から「棚にほとんどモノがなくなった」とか「生鮮食品はふつうにある」とか言いながら何度も様子見に出かけていた。いよいよ閉店の今日、夕方何か安くなっているのではないかと一緒にでかけたが遅かったらしい。入場制限がかかり、列に並んでから店内に入ると、ほとんどの棚に「半額」の札があるだけで、肉や一部のお惣菜以外の品物はもうほとんど無くなっていた。

わたしは商品の無い棚や右往左往する人々の写真を数カット撮った。閉店の理由も今のところ分からないし、新築?新装?開店するのか廃業なのかも分からない。コロナの影響があるのかそれもわからないが、閉店という言葉がどことなく暗いイメージと結びついてしまう世代のせいか、混み合う店内の人々と空の商品棚とのギャップをことさら意識してしまう。若い人たちは次の情報をキャッチしているのか「今までありがとう」とか、明るい声で店員さんたちに声をかけている。

小さな店の閉店はニュースなどでも耳にするが、それなりの規模の店が目の前で閉店するのを見る経験はあまり多くなかった。いろんなことがそこに象徴的に重なってかすかなショックを感じていたように思う。ノスタルジーとかいうのではなく、これから起きていくことがらの目に見える一歩のような不安というか。