バランスのいい食事(1)

清流  F4 水彩  2010

七月にメタボ検診を受けた。結果は腎機能に問題あり。その他のデータは受診するたびに良くなっていたのでちょっと驚き。幸手市では腎機能検査の導入は今年からで、昨年までのデータは無かった。検査があればもっと早くに気をつけていたのにと、ちょっと残念だがそんなことを言っても仕方ない。

首と腰の計4か所にヘルニアがあるので、体重が増えるとぐんと負担がかかる。医者に言われているのは体重コントロールと腹筋、背筋の強化。初めはどれも緊張気味に努力したが、最近は体重コントロールのみ。

体重コントロールはどこかゲームのようで面白いのが、続いているもうひとつの理由かも知れない。腹筋、背筋の強化は、何かの試合でも目指すのでなければ、継続はちょっとつらいのにひきかえ、こちらは食事や運動その他の数字の組み合わせと意思のマトリックスだ。自分の気持ちと体の客観視、一種のゲーム感覚がある。

数日前から、糖尿病患者のための食餌療法の本を読んでいる。患者の方には当たり前すぎてつまらないかもしれないが、食事に関してなかなか面白い考え方だと感心するところがある。

「食品交換表」という名の一種のデータブックがその食餌指南書であり、辞書でもある。一つの食餌療法の体系がその本に集約されているのだが、その指南書を有効にする大前提として、お医者さんと管理栄養士と患者が三位一体となって、「健康」という果実を得るためのチームを必ず組まなければいけないことになっている。そこでは「健康に生きる」ための食事をまず「カロリーとして捉える」視点を設定する。一日何カロリーで過ごすべきかを医者が決め、そのカロリーの割り振りと献立を管理栄養士が担当し、患者が最終的に実施するという役割分担がある。じつにシステマチックだが、もちろんそうでなくては病気など克服できるはずもない。しかし、面白いのはここから。

まず、そのカロリーを「単位」化して目で数えられる形にするのがこの食餌療法の要である。80kcalを1単位として、たとえばご飯50gが1単位で、食パン六枚切1枚の半分も同じく1単位とするということでイコール化、視覚化して交換可能にするわけだ(食品交換表という名前はここから来ている)。数年前には盛んに言われた「見える化」を少なくとも50年以上前に、日本全国で(本当は世界的に?)実践的にやっているわけで、企業の現場より医療現場の方がその意味では数段進んでいたことに、まず驚かされる。

食品をただ眺めて、好きなものから食べるなんて非科学的な食べ方は基本的に禁止である(何といってもこの本は糖尿病患者を対象にしているのだ)!食べ物はそれぞれの栄養特色ごとに分類し、表1から表6までに振るい分けられる。表1は穀物・炭水化物、表3は肉・タンパク質、表6は野菜・ビタミン、ミネラルという風に。管理栄養士は先ほどの「単位」と組み合わせて、患者の必要カロリー数を単位化する。例えば1600kcalが必要ならば1単位80kcalだから割り算して20単位の食品を取ることに換算するわけだ。そしてさらにその20単位を表1から10単位、表3から6単位などという風にして、表1から表6までのなるべくすべてに亘って摂取するよう指導する(均等にという意味ではない)。患者の状態に合わせ単位数と表を組み合わせる。

この組み合わせの的確さが、患者の健康回復を左右する。患者の意志の強さも見極める必要もありそうだ。数字と科学と人間心理のマトリックス。そのままゲームの本質ではないか?(この項後日に続く)

福島を捨てるのか?

シェルターの男(制作中) F4

福島原発事故による放射性廃棄物を、福島県内に中間処分施設を作って(一時的に)保管するという突然の政府案が福島県を驚かしている。菅首相は最後の最後まで突発発言で後に汚れを残していくつもりらしい。

政府発言はこの中間処分施設を「最終処分場にはしない」と言っている。では、どこがこのあとの最終処分場になるのか?ハイ、そうですかと核廃棄物の最終処分場として快く受け入れてくれる自治体が今の日本のどこにあるだろうか?

私の故郷、青森県下北半島東通村の隣に六ケ所村という自治体がある。そこには日本原燃という核再処理をする会社・施設がある。原発を持つ電力会社や経済界、原子力関係の団体などが政府主導で共同出資して設立したものだ。この「再処理」という語がクセ者で、プルサーマル計画という、ウラン燃料の燃えカスからプルトニュウムを取り出し、再び燃料として使うという計画が頓挫している現状では、実態はほぼ放射性廃棄物の置き場に過ぎない。また、30年以上経つこの計画で、実際にプルトニュウムを抽出・再燃料化して使ったことは一度もない。この施設の建設を巡って県・住民と国との間で言い知れぬ怨恨が渦巻いた。この時もすったもんだの末、国は「最終処分場にはしない」と明言したが、そんなことを信じる人は世界中探しても一人もいるはずはない(政府関係者でも)。当時は自民党政権下で、知事も自民党系だったから可能になった「最終処分場としての」中間処分場である。

福島原発の影響は全国どころか世界に及んでいる。原発事故へのアメリカ、フランスの原子力関連企業の協力姿勢は端的に言って、事故処理への技術的関心、格好のケーススタディになっている。国内だけで見ても静岡のお茶でさえ流通禁止になったりした。放射能が非検出、または基準値以下として売られている栃木、茨城、千葉産の野菜、果物、魚類をスーパーで見よ。いくら国や県が安全だと言っても、山積みに売れ残っているではないか。怖いものに敢えて手を出す必要はない。それが実態だ。それを承知で、敢えてうちが最終処分場になりますと手を挙げる自治体があるなど、想像する方が無理。つまり、六ヶ所村と同じ運命になるということだ。

青森県の場合、自治体もまた最終処分場だと公に認めないことで住民に納得させようとし、住民もまたそれを認めないことで一種の結論を先送りしている。その代償としてわずかな金(最終処分場としてなら)で問題を「思い出さない」ことにしているかのようだ。

国も自治体も住民もははっきりとそこが「最終処分場」だと認めるべきだと思う。認めたくはないが、溜まってくるから何とかごまかしてどこかへ置こうという態度は止めるべきだ。モノを喰えば嫌でも便は出る。だからどんなにきれいな家にでもトイレは作らないわけにはいかない。しかしトイレもいずれは満杯になる。その時には業者に浚ってもらう、あるいは自分たちの税金で下水道を完備する。業者や下水道の先もいずれ一杯になる。だから浄水場が必要になる。その浄水場にもカスは溜まる。本当に使えないカスは無害処置を施したうえで埋め立てなどに使う。その埋立地がすなわち最終処分場である。その流れがはっきりと示されれば納得して税金も払うという気も起きてくる。核の廃棄物もまったく同じことだ。流れを明確に示し、具体的にここがそうだと示すことで、保障も、事故への対策もはっきりとテーブルの上に乗せ、すべての知恵を結集させることもできるようになる。それを中間処分場などと曖昧にすることで、最終的な処理方法も、コストも具体的に検討することが出来なくなる。そのうちにやがて事故が起きる。それが原発に限らず政治的判断の問われる物事に、正面から向き合わない日本の体質だ。つまりは政治家が本質問題から逃げているということだ。

誤解のないように言うが、福島のどこかを核廃棄物の最終処分場にしろと言っているのではない。中間処分場などと誤魔化すなという意味である。震災の復興は住民の要望だし、見えもいいから政治家もやりたがるだろう。けれど手を汚す仕事、時には泥をかぶる仕事は委員会に下駄を預け、誰もやりたがらない。脱原発とか、再生可能エネルギーはきれいな言葉だが、今ある廃棄物、降下物、新たに排出される放射能をどうするのかという議論を抜きにして、あと何年稼働するとか止めるとか発電コストとかの話は出来ないのではないかと思っている。福島県に中間処分場を作るということは、現状で言えば福島を捨てると言うことに等しいのではなかろうか。そこに憤りを感じる。 2011/8/27

クモ膜下出血-2

斃れた男 F4 テンペラ 2011

頭が制作モードになかなか切り替えられない。調べてもきりがないが、クモ膜下出血に関する知識(役に立つものは一つもないのだが、知らないままでいられないのが本音)だけは増えた。病気の発症を防ぐ方法は無いようだし、MRIなどで脳動脈瘤があるかチェックし、適当な運動などでごく一般的な健康維持に努めるのが予防としてはせいぜい。

父は一昨日あたりからリハビリを始めている。手術後9日目。急性期リハビリというが、本人は術後2日目から自覚的に始めていた。家族のこともよく分からない意識状態で、「動かさないと動けなくなってしまうから」とはっきり言ったのには驚いた。母の体が弱く、しょっちゅう病院へ乗せていくため、運転ができなくなったり、日常の雑事に支障が出たら困るといつも考えているからだろう。少しボケかけた母も父のことが心配で、普段よりは頭がしゃっきりしていると弟が言っていた。確かに電話での話しぶりとは違い、しっかりしていた。

千葉県鴨川市に住む妻の母も、高齢の独り暮らし。すっかり体が弱り、食事を作るのさえ億劫らしいが、もっと困るのが買物。数年前から買い物カートにぶら下がるようにして歩くのだが、バス停まで往復3㎞の坂道はきつい。買い物後の荷物を入れて1.5㎞の上り坂はもう無理だと思うが、介護支援はしてもらえない。自力で買物に行けるという基準らしい。商店街に近い街なかで暮らしているのとは条件が違うのに。

自分のことで精一杯に暮らしているうちに、親たちは加速度的に年を取り、生活困難者になっていく。それがいまや現代日本の一般的風景だ。経済大国と豪語していた時代の貯金はいつの間に使い果たされてしまったのだろう。日本の借金は一千兆円になる。

クモ膜下出血では基本的に身体麻痺は起こらない。が、出血の反応で脳の血管が収縮する(血管れん縮)のが普通で、それが二次的に脳梗塞を引き起こす可能性が高い。2週間を過ぎればそれも安定する。以前はそれから回復期リハビリというのを始めていたが、今は体を動かせるようになればすぐに始めるらしい。入院の当日からというケースさえある。

父の容体は安定してきていると思う。でも、家族との生活、精神面、社会との関わりなどこれからの方がはるかに大変だ。現在もたくさんの人々がそのことに苦しんでいる。それでも父などは幸せだと思う。ある意味充実した医療の恩恵を受けられた。

しかし、これからの若い人がそんな恩恵を受けることが、これからも出来るのだろうか。医療技術の進歩は確実だが、それが享受できるためには経済的、制度的、思想的な支えが要る。それをこれからの日本が支えきれるのだろうか。大震災に揺られて以来、日本全体がクモ膜下出血しているような錯覚に囚われる。頭がすっきり制作モードに切り替えられないのは、そのせいもあるような気がする。2011/8/26