「落ち葉」と「枯れ葉」

落ち葉。夕方には虫の声も

連日暑い。今日も西日本では38°超えた地点がいくつかあり、関東でも35°以上を記録。明日から9月だが、近年ではこの時期のこの暑さは、もう珍しくなくなった感じがする。それでも、1週間ほど前から、こおろぎの声を聞くようになった。秋だな、と思う。

庭の木々も草もカラカラに乾いている。午後から久しぶりの雷雨と言うから、期待して空を見たが雰囲気だけ(夜になってから、 10分ほどお湿り程度に降った)。それでも少し涼しい風が吹いてきたから、日暮れに、近所を自転車でちょっと散歩した。

公園の通りはもう枯れた葉が落ちて溜まっている。日照りのせいかもしれないが、目にはいかにも「すでに秋」の風情。ふと、「落ち葉」と「枯れ葉」の違いを考えてみた。

枝についたまま枯れる葉もある。病葉(わくらば)、朽葉(くちば)がそれにあたる。反対に、風雨に叩かれるなどして、緑のまま落ちる葉もあるが、落葉生の木々では、植物自身の生理として自ら葉を落とす。俳句では、落ち葉も枯れ葉もどちらも冬の季語らしいが、落ち葉の方がよく使われるようだ。柿の葉が落ちれば「柿落ち葉」、椎の葉が落ちれば「椎落ち葉」。柿枯れ葉とか椎枯れ葉とは言わない。後者では、なんだか木自体が病気になったように感じられるから不思議。

自分に還る時間?

「 Apple-Yellow」 2020

しばらく制作を休むと、頭も体もついていかなくなり、特に制作途中の作品に気持がつながるまでには、かなりの時間がかかる。だから、たとえ制作時間が短くても毎日描くのがよい、と昔はよく言われたものだ。今もそう言う人がいるのだろうか。

8月も後半に入って、やっと制作への神経回路が繋がり始めてきたのを感じる。ほぼ丸々1ヶ月かかった。この1ヶ月はまるで自分の頭の一部をどこかに置き忘れ、他人の手を借りて描いているような感じだった。そして寝る前にいつも同じことを呟く。「いったい自分は何をやっているんだろう」。

本当は絵なんか描いている場合じゃない、のかも知れない。ただ、描かないことには、自分のいる場所が無い、そんな気分になって落ち着かない。とりあえず、自分を落ち着かせ、何かを考え、何かができるようにするためにも、(私にとっては)絵を描く時間が必要だ。

AIが絵を描き、それをAIが観賞し、その流れの最下流で人間がその「絵」を見るようになるだろうか。その時、「絵を描く時間」はどんな意味を持つだろうか。

暑い夏

「 Apple 」20 Aug ’20

やはり埼玉の夏は暑い。例年、8月は涼しい下北半島で過ごしていたので、久しぶりに埼玉の夏を味わっている。下北半島とは10度〜15度くらい違うので、1ヶ月くらい籠もって集中して何かやるのにはもってこいの気候だ(ちなみに今日8月21日、埼玉県鳩山町では39.4°だったが、下北では23°)。

最初のうちは疲れるほど暑く感じたが、半月もすれば慣れてくる。それでも「危険なほどの暑さ」の日は、窓や雨戸に当たる日差しが厳しい。家の前を腰の曲がったおじいさん、お婆さんが買い物車を押しながら何人か通る。「何もこんな暑い時刻にいかなくたって」と思うが、朝早くは店が開いてないし、夕方は混みあう。目も悪くなっているから昼間の方が安心なのだろうと想像して、痛々しい気がする。

慣れてくると何度まで、クーラーなしで普通に仕事できるかなどと、無意味な興味が湧いたりする。そんなのに我慢する暇があるなら、仕事なり、勉強なりした方が得なのは確か。そんなことを考えるほど、頭がボーッとしてくる。