ヴァリエーション(変相)

昇仙峡(水の流れ)
川遊び
磯遊び

絵画で言うヴァリエーションとは変相、相(姿・かたち)を変えてみること。「水の(透明感)表現」を今月のテーマにする水彩画教室があったので、わたしもデモ制作として何点か描いてみた。
 1点目は実際の状況に近く、2点目はそこに子どもを置き、川辺の涼しさを体感的に表現することに狙いを変えた。3点目は川ではなく海辺まで変相を広げ、都会的な磯遊びの感覚を構想してみた。描いていると、川と海との光線の強さの違いをだんだんと思いだす。子どもの頃の感覚はこの歳になっても案外覚えているものだ。
 このような試みは多くの人が実際にやっていることで、絵画の構成力を高めるためにはとてもいい方法だが、面倒がってやらない人の方がたぶん圧倒的に多いと思う。一つのモチーフで一枚描くだけでは、常にモチーフ探しをし続けなくてはならないことになる。かつて、教室に、画面中に必ず自分自身を描き込む人がいたが、ヴァリエーションを構想しやすい、いいアイデアだと思った。

VR

Matsukasa

「ヴォドゴルコフ伍長はウラジーミル軍曹との戦闘を再開した。会ったことはないがお互いに顔どころか、趣味や、ある程度の生活の状況までよく知っていた。互いの距離は100km。もちろん銃などの届く距離ではないが、目まぐるしく位置を変える相手のうしろ姿を、獲物の匂いを嗅ぎつけた犬のように追っていた。
 ヴォドゴルコフ伍長は80歳になったばかり。ウラジーミル軍曹は数年前にすでに亡くなった。けれど、今はどちらも24歳。どちらも上空のドローンに見つからないよう、なるべく葉の多い木々の下を選び、腰を屈めながらネズミのように小走りする。」

「ヴォドゴルコフ伍長は病院のベッドでたくさんの医療用チューブに繋がれたまま、ゲーム機のようなボタンに指を置いている。ウラジーミルは、禿げた頭と真っ白いあご髭を振り回しながら、楽しそうに24歳の頃の思い出をモニターの中で語っている。背後のモニターでは若い彼がキーボードをたたきまくっている」―これは仮想?いや、どちらかが引き金を引けば(ボタンを押せば)実際に弾が発射され、そこでどちらかか、あるいは他の誰かが死ぬ―VRで戦争すればこんなふうになるのだろうか。

VRで戦争すれば―と書いたが、1990年の湾岸戦争で、わたしはすでにVRでの戦争を見た。モニター上で破壊される戦車は虚像であるが、数キロ先で実際に戦車は破壊され、若い兵士がその中で体を引き裂かれて死んでいる。いま現実に起きているウクライナでの戦いはすでにVR戦争そのものだ。
 ※VRは「Virtual Reality / バーチャル・リアリティ(仮想現実)」と訳されるが、Virtual という語には「仮想」というより、むしろ「現実的・実質的な」という意味合いが強く、「見かけはそうでなくても、こちらが本当(現実)でしょ?」という内容を示している。

わたしはコロナウィルスがどんな形をしているのか、生理的な視覚では見ることができない。けれど、その姿を知っているどころか、疑うことさえしない。知床の観光船が海底に横たわっている姿も、それが現実だと信じて疑わない。カメラが出現したときから、いや、実際は人類が「絵画」を創造したときから、現在のVRまでは歴史の必然だったとさえ思える。朝、食事をする。ご飯、パンを食べているのか?それとも目に見えないはずのカロリー、タンパク質何グラム、を「食べて」いるのか?計算通りダイエットが進めば、それが「現実」?

ナレーション

眼鏡とアケビ

ナレーションとは動画に沿って、その内容を説明したり、映像に心理的な奥行きを与えるための「語り」のこと。実際に動画を作るときは、他にも「字幕」という選択肢もあるし、強調したいなら同時に使ってもいい。何かを解説する動画なら、ナレーションも字幕もなしに内容が解るのが一つの理想だろう、と最初は思っていた。

けれど、不特定多数の、一般の人に向けての動画からナレーションや字幕を無くすのは無理そうだ。まず、声が無いと眠くなってしまう。ある程度、ボリュームの必要な動画なら、たとえ見るだけでわかる動画でも、適当なタイミングでアクセントをつけないと飽きてしまう。それに、たとえばわたしの「水彩画を描く動画」からナレーションを無くしても、自分でも描いている人には解るが、ほとんど描いたことがない人には、「ここが大事です」というポイントを示さないと、気づかれないうちにスルーしてしまう。そういう人にとっては、解りやすい説明を入れることが親切というものだと、わたし自身が見る立場でそう思う。

それに「見栄え」「聴き映え」というものもある。その人の声を聴くだけで癒されたり、元気が出たり、世界が広がるような気持にしてくれる「声」というものが確かにある。それがナレーションの力。―と言っても、わたしにはそのような才能はないから、適切なナレーションのことだけを考える。けれど、ご想像通り、これがとても難しい。「水彩画…」でも筆の動きを言うのか、色のことを言うべきか、全体の流れの中で言う方がいいのか、あれこれ考えているうちに場面はどんどん移っていく。たくさん言葉を入れれば、画面はダラダラと長くなる。逆に、時にはもう少し説明したい文案があるのに、すでに場面をカット、スペースがなくなっていることもある(素人ゆえ)。

そのうえ、何度も言い間違い、読み間違う。そのたびに録音し直し。言いにくいときは、読みやすく文面を修正しなければならない。雑音も入る。自分でも気づかないうちに救急車のパーポーが入っていたこともある(防音室がないので)。ビデオ編集を仕事にしているわけではないから、一気にやれる時間は限られている。日時をあらためると、声の調子がすっかり別人になっていることもある。常に声質の安定しているアナウンサーは、さすがにプロだとあらためて感じる。多くの動画では撮影と同時進行でスラスラと喋っているが、それはわたしには難しい。20分程度のビデオのナレーションだけで数日かかることは、わたしの場合珍しくない。―その間に、一枚でも実際の水彩画でも描けば?と心のナレーションが聞こえてくると、なおさらストレスが増す。