「わたし」と「わたしたち」

「わたしたち」というとき、「わたし」はすでに誰か他人の陰に隠れている印象がある。複数の中に紛れて、自分を幾分か隠している感じがする。

「わたしは」と一人称で言うとき、それは自分の選択や行動を、他人の誰かのせいにしない、ということにもつながる。それは厳しい世界の始まりになる。一度巣立ったら、鳥はなにがあってももう誰のせいにもしない(できない)。鳥だけでなく魚だって、動物だって、昆虫だって同じこと。イワシの群れ、ミツバチの群だって、ひとつの行動をするとき、その一匹一匹が隣のイワシやミツバチのせいにしているわけではなく、本能的な危機管理能力のかたちがそうなっているだけのことだ。違うのは人間だけ。

逆に言えば、「わたし」を捨て、「わたしたち」を大きくすることで人間は社会を作り、文化を創り出せたのだ、という言い方もできるかもしれない。でも、最近は「わたしたち」では文化は創り出せないような気がしてきた。「わたし」しか、できないのではないか、と考えるようになった。ベートーベンは「わたしたち」ではない。「ピカソ」も「わたしたち」ではない。「わたし」のスペースをもっと拡大しなければ、「わたし」は他人の誰かの陰に隠れたまま、イワシやミツバチのように終わる。それもまっとうな生き方の一つではあるけれど。