金メダル30個?アホか

2020東京オリンピックで、またぞろ「金メダル30個」目標が出てきた。「金メダル」とか聞くたびに嫌になる。子供たちがマイクを向けられ、無邪気に「金メダル取ってほしい」「私も取れるようになりたい」。選手の地元の応援団、後援会のジッちゃん、バッちゃんも「金メダルが、ええなあ」。

選手は本当は「ただ頑張る」以外にないのだが、その声に押されて「金メダル目指して」と言わざるを得ない。しかも、メダルを取れば取ったで「皆さんへの感謝の言葉を」とマスコミに促され続け、自分が頑張ったことへの実感を噛みしめている余裕もない。確かにメダルを取るには、周りの大きなサポートが不可欠だし、その力が小さくないのは事実だが、「感謝を」催促したり、サポート側の力を誇示したりするのは、エゴ丸出しで恥ずかしいことだ、ということが解らないらしい。スポーツの側にいながら、スポーツを理解できていない。それを毎度のように見せつけられるのも嫌だ。

スポーツの本当の美しさはギリギリの挑戦にある。戦うのは相手ではなく、自分の「限界」だ。そういう意味で、すべての選手が同じラインに立っているし、そこが私たちの人生と重なり合うものでもある。だから共感することができ、感動するのだ。選手間の順位や勝ち負けなど、本当はどうでもいいことなのだ。ウサギが亀に駆けっこで勝ったって、感動などするわけがない。

私は陸上競技や水泳が好きだ。それは選手全員が等しく、タイムという非情な壁に挑まざるを得ないから。タイムのいい順に準決勝、決勝と進んでいくけれど、それはスポーツをメダルレースというビジネスにするための運営上のうまい方法であって、私たちはそれにすっかり乗せられ、そういうものだと思い込まされてしまっている。

金メダルがスポーツを不純なものにしている。そんなものはやめるべきだ(といっても益々さかんになるだろうが)。スポーツに限らず、賞というものの本質はそういうものだと知るべきだ。本人の「一時的な目標」として、大いに活用するうちは良い。けれど、それを選手に目的化させてしまうマスコミ、それに騙されている私たちのアホさの罪は軽くない。

筑波大学へ車で行ってきた

筑波大学  2018/6/2   15:00

用事があり、昨日(6/2)筑波大学へ久しぶりに行ってきた。初めて圏央道経由で。私が乗ったインターから筑波中央インターまで30分。かなりの区間1車線なので、遅い車がいると時間がかかるが、それでも下を行くより遥かに楽。途中見るものは空と田んぼと雑草だけ。目に優しい風景だと考えることにしよう。

筑波大学は広い。中にいくつか公園があり、構内の道の脇には大きな木が伸び放題に伸びて、チマチマした考えなど吹っ飛んでしまいそう。そういえば、構内でキャンプしようと、キャンプ道具を車から下ろしている数人の学生もいた。確かに奥の方は人も行かないジャングルになっているようだし。

構内は異国だ。図書館やカフェテリアなどでは外国語の方が多く聞こえる。日本人の声はきわめて小さく、その上あまり喋らない。やかましいのは中国語。自信の現れか、自国が広いせいか、数人でも100m離れた相手に話すような大声だ。

写真は理系学部の一画。この日は日差しが強く、日陰を選んで歩く学生(土曜日で少なかったが)や、パラソルをさす職員もいるなか、爽やかな風の音をあたりに運んでくれていた。環境抜群だが、陸の孤島という評価もある。学生も教職員も、周りに遊ぶところもなく、ひたすら勉強以外にすることがない、というのが良いのか悪いのか。圏央道が通って首都圏からの交通の利便性は確かに高くなったが…

私たちが選んだ国

クレマチスと水差し

いま日本は年間30万人ずつ人口が減っているそうだ。週に6000人。人口6万人の小都市なら10週間、3ヶ月足らずで消えることになる。しかも減少の速度は増しつつある。これはもう戦争レベルの非常事態ではないか。

ニュースを聴くと(当然?)人手不足、らしい。なのに、働く人の時給は上がらず、正社員になる道は広がらず、老後の不安はどんどん増していく。外国人を「移民」ではなく、「実習生」として受け入れようとしている。選挙権など、国の方向を決めるような権利は与えず、生活保護など負担になりそうな時はサッサと追い出せるようにしておこうという、姑息で、人権軽視の姿勢が見え見えだ。それが私たちが選んだ政治家たちの考えだ。

税金の使途は自分たちファミリーの都合いいように改ざんされ、追求には記憶喪失と黒塗りで応え、税金を使っているくせに自分の手柄のように威張る。圧力が北朝鮮でなく国民に向き、年寄になったら金がかかるから早く死ねと顔に書いてあるというのに、政権の支持率は下がらない。これはもう宗教だと言うしかない。私たちはどうやら筋金入りの馬鹿であるらしい。

馬鹿なら馬鹿らしく、馬鹿なことをやって楽しんで死ぬのも良さそうなものだが、人と違うことをとことん怖れる臆病者でもある。美しい国、おもてなしの国とは、実はのっぺりと脳みそのシワもない、裏アリ表ナシの国なのだった。