金メダル30個?アホか

2020東京オリンピックで、またぞろ「金メダル30個」目標が出てきた。「金メダル」とか聞くたびに嫌になる。子供たちがマイクを向けられ、無邪気に「金メダル取ってほしい」「私も取れるようになりたい」。選手の地元の応援団、後援会のジッちゃん、バッちゃんも「金メダルが、ええなあ」。

選手は本当は「ただ頑張る」以外にないのだが、その声に押されて「金メダル目指して」と言わざるを得ない。しかも、メダルを取れば取ったで「皆さんへの感謝の言葉を」とマスコミに促され続け、自分が頑張ったことへの実感を噛みしめている余裕もない。確かにメダルを取るには、周りの大きなサポートが不可欠だし、その力が小さくないのは事実だが、「感謝を」催促したり、サポート側の力を誇示したりするのは、エゴ丸出しで恥ずかしいことだ、ということが解らないらしい。スポーツの側にいながら、スポーツを理解できていない。それを毎度のように見せつけられるのも嫌だ。

スポーツの本当の美しさはギリギリの挑戦にある。戦うのは相手ではなく、自分の「限界」だ。そういう意味で、すべての選手が同じラインに立っているし、そこが私たちの人生と重なり合うものでもある。だから共感することができ、感動するのだ。選手間の順位や勝ち負けなど、本当はどうでもいいことなのだ。ウサギが亀に駆けっこで勝ったって、感動などするわけがない。

私は陸上競技や水泳が好きだ。それは選手全員が等しく、タイムという非情な壁に挑まざるを得ないから。タイムのいい順に準決勝、決勝と進んでいくけれど、それはスポーツをメダルレースというビジネスにするための運営上のうまい方法であって、私たちはそれにすっかり乗せられ、そういうものだと思い込まされてしまっている。

金メダルがスポーツを不純なものにしている。そんなものはやめるべきだ(といっても益々さかんになるだろうが)。スポーツに限らず、賞というものの本質はそういうものだと知るべきだ。本人の「一時的な目標」として、大いに活用するうちは良い。けれど、それを選手に目的化させてしまうマスコミ、それに騙されている私たちのアホさの罪は軽くない。