本 Book

「透明な水」 ただいま制作ビデオを編集中

すっかり本を読まなくなってしまいました。目が悪くなって読みづらくなったこと、パソコンに時間を取られてしまい、かつそれで目が疲れること。近くに書店が無くなってしまったこと、コロナで図書館が長い間休館したこと等々が重なったこともあります。でも、一番の原因は知的な好奇心のレベルが下がってしまったことのような気がします。

新しいこと、それまで知らなかった分野に明るくなることは、たぶん誰にとっても楽しい。だからこれだけパソコンや携帯電話(名前こそ未だに“電話” だが、中身はほとんどパソコンです)が普及したのでしょう。知りたいことがすぐに分る、「検索」への需要がそれだけ大きいということでしょうか。

けれど、一方で「何を」知りたいのか、という興味の対象についてはどうでしょう。そのことをAIに訊いてみると、検索される項目の上位が、美容・コスメ、エンタメ、その時々の話題のニュースなどのようで、わたしの“偏見”もあるでしょうが、あまり知的な好奇心からというわけでもなさそうです。「情報」のほとんどが目の前のこと、刹那的な消費に流されているといってもいいかもしれません。
 それは情報の「軽さ」とも深く関わっていそうな気がします。パソコン、携帯で検索される情報の多くは「タダ同然」です。使い捨てても惜しくない情報です。時間ロスも長くても数分で済みます。
 本(紙の。以下、紙の本のことについて話します)はそうはいきません。ちょっとした本を買うと一冊1000円ぐらいから(少し専門的になると)1万円くらいはします。内容についても書店まで出かけて行って直接見るか、レビューなどでよく調べてから買うことになるでしょう。お金も時間もかかります。買った後も読む時間が絶対的に必要です。その本を置くスペースも取られます。いわゆるweb 情報に比べると、格段にコストがかかります。

わたしのような旧人類・アナログ人間には、このコストをかけないと頭に入らない「習性」が染みついてしまっています。本を読むことでしか、ひとつひとつの断片的な知識が体系化されず、体系化されない知識は応用が利きません。
 本を読むには案外な体力(意識を集中し続けるためのストレス)が要ります。年齢や生理的な体力とは別に、本を読まなくなると、この体力はすぐ落ちてしまいます。当然、新しい体系的な知識や考え方などが入ってこないことになり、それまでの知識だけでやりくりする羽目に陥ってしまいます。時代についていけないことになるわけですよね。
 パソコンに取り込まれてしまわないためにも、(古いツールのように思われようと)やっぱり本を読まなくちゃなあ、とあらためて思ったことでした。

「水の透明感-習作」

「水の透明感ー習作」 水彩

気づかずにいるうちに、すでに学校などでは夏休みに入ったようです。子どもが成長して、学校と縁が遠くなるとこんなことにも疎くなってしまいます。その夏休みの初日に、全国で何人かの子どもが水難事故に遭ってしまったというニュース。ちょっとの差で助かるチャンスも有ったろうと想像すると、本当に残念で、なおさら痛ましく感じます。

夏の水遊びは、子どもにとってはこの上もなく愉しいことです。わたし自身もそうでしたが、わたしの子どもも野外での水遊びが大好きで、いつまでも止めようとしませんでした。そろそろ帰ろうか、と言うといつも「帰んない」。ずっと付き添って、飽きるまで遊ばせてやりたいと思いながら、閉園のチャイムに押されて無理に連れて帰ったことなど、思い出すといまでも心がシクシクします。

わたしは漁村で育ったので、海や川は日常の環境そのものでした。その中で何度か怖い経験をし、警戒心と危険に対する想像力が働くようになったように思います。水難事故に遭う子どもが気の毒なのは、そういう経験を経ずにいきなり危険の中に引きずり込まれてしまうことです。そうした経験の積み重ねがせめて一度か二度でもあれば、目の前の自然に対しての眼差しが鋭くなり、危険への想像力が違ったかも知れないと思います。
 高山とか深い海などの場合は誰でもそれなりの心構えをします。が、身近な自然には、つい「安心」のオブラートを被せてしまいがちです。「 “知ってるつもり” の自然こそ危険」だと思っています。

話題が跳ぶようですが、「野生動物」はみな臆病です。いや、警戒心が人間よりずっと強いと言うべきなのでしょう。食物連鎖の頂上にいるライオンや虎でさえ、寿命を全うすることは、ほぼ不可能なことだと言われています。いつか、どこかの段階で、自分自身が食われてしまうか、争いなどで命を落としてしまうことを彼らは毎日経験しでいます。目の前の危機と、それに対応する自分の能力とに関するセンサーが、人間よりはるかに鋭敏なのだと思います。
 「磯あそび」について楽しく書こうと思っていましたが、そんなニュースに触れてしまいました。

雨が降らない

「カモメたち」 油彩 F120

雨が降りません。(大雨、水害で困っている皆さんには申し訳ありませんが)少しザアッと降って欲しいくらいです。庭のアジサイなど、特に水を欲しがる草花はぐんにゃりと首を垂れてしまっています。

こんなに雨が降らないのだから、首都圏の今年のダムの貯水率はどうかというと、全然問題ないのだそうです。少ないところでも80数パーセント、利根川水系では93%と、天気予報で言っていました。山の方ではわりに降っていたんですね。

しかし、平地で雨が降らないということは、それだけ気温も高くなるということで、毎日毎晩クーラーが使いっぱなしになるということにもなります。グリーンカーテンも水あってのこと。水を汲み上げるにも電気が必要です。適度な雨のあることがいかに幸いなことかと、つくづく感じます。
 目の前に水があってもそれが泥身では飲むことも使うこともできません。洪水であふれた水はただ引いていくのを待つしかありません。温暖化の影響で海水の量は増え、水没する国や地域が出始めています。

異常気象も温暖化の影響があると言われています。日本では2050年までに二酸化炭素の排出量を「実質ゼロ」にする、「カーボンニュートラル」を宣言しています。排出量をゼロにするというのは、植物などに吸収される量と経済上発生する量とを同じにする、という意味で、まったく発生させないということではありません。
 経済産業的にはとても達成の見込みは無さそうですが、皮肉なことに少子化が進み、人口減による産業の衰退が進めば、達成可能であるかもしれません。そういう意味では「少子化対策」と「温暖化対策」とは矛盾しかねません。
 「知恵」を結集することが必要です。知恵のもとは知識、事実を知ることですから、研究をもっと深めることが大切なのは間違いありません。一方で、温暖化そのものの研究だけでは、研究自体も進みません。新しい観測機器の研究・開発も不可欠ですし、あらたな角度からの発想も重要です。どれか一つだけ突出すればいいというわけではないのです。
 でも、日本では特定の研究に、特定の期間しかお金を出さない政策を実施中です。研究費など、日本のGDPから見れば微々たるものですが、それを税金の使途の下位に置く理由は、あえて言えば政治(家)に選挙から次の選挙までの期間より長い、長期的(?)なビジョンがないからでしょうか。種をまき、水を遣るのが大変なのはわかりますが、もう枯れかかっていますよ。