「わたし」と「わたしたち」

「わたしたち」というとき、「わたし」はすでに誰か他人の陰に隠れている印象がある。複数の中に紛れて、自分を幾分か隠している感じがする。

「わたしは」と一人称で言うとき、それは自分の選択や行動を、他人の誰かのせいにしない、ということにもつながる。それは厳しい世界の始まりになる。一度巣立ったら、鳥はなにがあってももう誰のせいにもしない(できない)。鳥だけでなく魚だって、動物だって、昆虫だって同じこと。イワシの群れ、ミツバチの群だって、ひとつの行動をするとき、その一匹一匹が隣のイワシやミツバチのせいにしているわけではなく、本能的な危機管理能力のかたちがそうなっているだけのことだ。違うのは人間だけ。

逆に言えば、「わたし」を捨て、「わたしたち」を大きくすることで人間は社会を作り、文化を創り出せたのだ、という言い方もできるかもしれない。でも、最近は「わたしたち」では文化は創り出せないような気がしてきた。「わたし」しか、できないのではないか、と考えるようになった。ベートーベンは「わたしたち」ではない。「ピカソ」も「わたしたち」ではない。「わたし」のスペースをもっと拡大しなければ、「わたし」は他人の誰かの陰に隠れたまま、イワシやミツバチのように終わる。それもまっとうな生き方の一つではあるけれど。

もう、言葉もない

「ポインセチアのスケッチ」

年末。子どもの頃は楽しかった冬休みから正月にかけての期間が、年を取るごとに辛くなってきた。寒さなど、関東平野部では大したことはないが、そんな体力・生理的な面だけでなく、精神面、社会的なことなどひっくるめて、楽しいことがなくなってきたと感じている。

それが老化、と言われてもあえて反論する気さえ起きないが、ニュースひとつ取り上げてみても、大谷選手の活躍と新しい契約、インバウンド景気などの明るい面より、ウクライナ、イスラエル、自民党のキックバックなどの方がずっと心にのしかかる。

イスラエルのガザ攻撃。第二次大戦でのユダヤ人への共感、同情、そこからの教訓を、当のユダヤ人自身がすっかり踏みにじってしまった。ナチスがやったことをそのまま裏返しにしているだけではないか。それを、人権と民主主義の擁護を標榜するアメリカが、国際世論を無視しての絶対的支持だ。ロシアにダブルスタンダードと嘲られるのも当然。信義は地に落ちた。唯一の核被爆国を世界に訴えながら、核廃絶への行動に一切加わろうとしない日本。「人類の知恵」など、お笑い種だ。

いま旬の話題、パーティ券のキックバックにせよ、官房長官が辞任しようと、大臣が何人辞めようと、次の選挙で、何の疑問もなく投票する人々によって、「みそぎを済ませた」とうそぶきつつ、また偉そうに大臣に返り咲いてくるのだ。日本国民の脳みそは発酵し過ぎてしまったに違いない。そんなことばかりではない・・と、思いたくても、さらに悪いことしか思いつかなくなった。もう、言葉がない。
 ほんのひとときの絵を描く時間。大切なものはすべて小さく、掌の中にしかない。

包丁一本、筆一本

顔の習作 水彩・ウォーターフォード紙

7日のブログをすっ飛ばしてしまった。深夜12時少し前、ブログを書き終わって、一杯のワインを注いだのがいけなかった。日付が変わるまでにまだ15分くらい余裕がある。どの写真をブログにつけようか、などと考えながら、ごくりと一口喉に流し込む。その前に短いニュースでも見ようとYouTubeを開いた。ウクライナ、ガザ、パーティ券のキックバックなんて見ているうちに、誰が注いだのか、2杯目が。
 すっかりアップロードしたつもりになっていた。翌日、あえてアップするほどの内容でもないか、ということでスルーしてしまった。

風呂吹き大根の真ん中に芯が残って、箸で4つに千切れない。熟し過ぎてふにゃふにゃになった柿が、皿の上にだらしなく伸びていて、手で持ちあげることが出来ない。包丁の出番である。とりあえずどちらも十字に切りさえすればなんとかなる。アーメン。包丁って便利な発明品だとあらためて考えた。
 「それを言うなら鉄の発明、だろ」と正当過ぎるツッコミを入れないでもらいたい。ちなみに、我が家でこういう状態の柿を食べるのはわたしだけである。特に好んでいるわけではないが、なぜかときどき目の前に寝そべっているのである。今年は特にその頻度が高い。が、迷惑なわけでもない。硬い柿と、ぐでぐでの柿とはまったく別種の果物だと割り切れるかどうか、だけである。一度など、すでにアルコール発酵が始まっているやつも食べたことがある。もはや珍味である。

そう、包丁の話だった。モノを切って食べるのは人間だけだ。他はすべて丸呑みか、歯で切り裂くか噛みきるだけ(吸血するやつもあるか・・)。呑み込めるのかと思うほどの大きな魚を、喉の半分くらいのところでつっかえたまま、ジレンマに悩む鳥。こんな時、彼らに包丁があったら、何の苦もなく、刺身でも、ステーキにでもして食べられるだろうに、と思わざるを得ない。水牛の角をワニはどうやって口の中に入れるのだろうか。心配してやる必要はないが、心配である。包丁さえあれば、もし噛みきれないほど硬いものでも、そのうちなんとかなる。顎を怪我しても、肉を噛みきる歯が折れても心配ない。有難い発明だと、つくづく感謝である。
 あっ、筆のことね。筆で文字は描けない(わたしの場合)が、絵は描けるから便利だなーっと。無くても絵は描けるけど、一応便利。