AI と技術・感性

Apple-海を渡る(部分・制作中 04/03)

絵は上手にならなくていいと、わたしは何度も言ってきたし、実際にそう思っている。画家の中にもそう思っている人は少なくないと思う。

けれど、ネットを見ていると、むしろ細かい技術ばかりにニーズがあるように見える。「〇〇の描き方」「〇〇の使い方」のようなコンテンツの視聴率が高い。これが実際のニーズを反映していると思うか、チャットGPTに聞いてみると「ネットでのニーズが実際のニーズかどうかはわからないし、ネット上でもそれが本当のニーズではなく、単なる興味本位、好奇心だけであるかもしれない」云々。でもまあ、ネット上では少なくとも「技術」「ハウツー」「エンタメ」に興味が集中していることは確かだ。

「絵画(芸術)は技術だけでできるものではない」と謂われ、わたしもつい最近までそう思ってきた。だが、直近のAIの進歩を見ると、人間が「技術だけでないもの」をはたして判定できるのかが心配になってきた。「人間が望む『感性』も(数秒で、いくつでも)与えてくれる」ことが明らかになってきたからである。「自分の感性」などと言っているうちに、「AIに教育された感性」を自分固有のものだと思いこむ状況になりはしないか。

技術も感性も、方法は異なるが磨くことはできる。技術の方が磨きやすいが、いずれはどんな技術もAIに追い越されるのは確かだ。感性はどうだろう。いまのところAIは人間の域には達していないらしい。AIの登場で人間はいずれ仕事をしなくなる(できなくなる)。感性を磨かない人間はどうなるのだろうか。絵はだいぶ進んできた。考えがまとまっていないところがまだ少しあるので、やはり締め切りギリギリまでかかるかな。

制作中

Apple-海を渡る(部分・制作中)

数日ぶりに夕方まで制作できた。だいぶ派手派手になってきたが、まあ、こんなもの。ふざけていると思われるような絵だが、一応まじめに考え、適度な荒さを失わないように気をつけながら、の制作です。

ここでは見えない(見せない)画面下部は遅れている。なぜかというと、画面の下の方は姿勢的に描きにくいからだ。アトリエは天井が低く、画面を上にあげるとすぐ天井にあたってしまう。かといって寝そべって描くのも大変。だから下の方を描くとき、最近は水平にして描くことが多い。

以前は直接床に置いて制作もしたが、今は机の上に置く感じで、できるだけ中腰にならないようにする。が、やはり中央に近いところを描くときは手を伸ばして、中腰にならざるを得ない。なので、ついつい上の方ばかり進み、バランスの悪い絵になりがちだ(と思う)。

ポスターのような絵だが、確かにイメージもそれに近いかも知れない。あと数日で図録用の写真を撮らなくてはならない。未完成でも、なんとか見られるところまで漕ぎつけないといけない。浪費が多すぎるのか、いつも時間が足りない。

花見に行く気がしない

「絵画の明暗」ビデオ用に制作

絵画の基本レッスン用ビデオ1本をYouTubeにアップしました。明日4月2日9:00に公開予定です。教室でやったことを簡単なビデオにしただけ。6分24秒。理屈は解っているけど、どうやって作品と結びつけるかは別問題で、その最も単純な例を描いてみた。

毎日忙しいが、どれひとつとしてかたちになってこない。例えばビデオ製作ではビデオという物理的なかたちはできてくるが、そういう意味ではなく、自分の仕事としてのかたちが見えてこないということ。単に「練習」の日々。いつまで続くのか、はたしてかたちになるものかはっきりしない日々は案外重苦しい。

一歩外へ出ると花見の列。近くのスーパーまで裏通りを通って買い物に行ったが、それでも普段の3倍の時間がかかった。表通りは渋滞。今の日本では、誰でも自宅から歩いて10分以内に桜があるのではないだろうか。花見ならそれでもいいのだろうが、わざわざこうして渋滞の中を出かけていくということは別な意味があるのに違いない。