感覚的と論理的

デモ制作を制作中(油彩・F8)

「天才的」と言われる人たちがいる。一般の人には思いつかないような発想と飛び抜けた能力で、若くして人類史的な一つの仕事を成し遂げてしまう人々のこと。学問の世界にはたくさんいるようだが、残念ながらそちらはあまり詳しくないので例を挙げられないが、スポーツならアメリカ大リーグ野球の大谷翔平(以下敬称略)だろうか。発想はともかく、彼のずば抜けた能力とその達成したものを見る限り、天賦の才能、つまり天才と呼んで差し支えないのではないかと思う。

同じ野球でもイチローには「天才的」と呼びにくいものがある、とわたしは感じる。「彼のずば抜けた・・・その達成したもの」を見る限り、彼もまた天才と呼んで差し支えないはずである。なのに、なぜ彼の場合そう呼びのに一瞬ためらうのだろうか。一つは「体格」。大リーグ選手の中ではイチローはかなり小柄である。そして、ホームランより、足で稼ぐような渋いヒット。アッという驚きより、「コツコツとたゆまない努力の積み重ね」の印象が強い。おもにその2つが彼を天才というより努力の人=秀才、というイメージにするのではないだろうか。しかし、本当は彼もまた上記の理由で天才の一人だと言えるはずである。

「天才」になる方法は無いし、それを目指すこともそれ自体矛盾である。しかし、天才も自分一人では天才にはなれない。大谷選手であれば、監督が彼を起用することが第一で、チームがいることが次で、それを喜ぶファンがいることがその次に不可欠だ。そのどれが欠けても彼は天才にはなれないのである。彼自身の天才とそうした環境が合わさって、初めて「天才」が生まれるのである。では「秀才」になら誰でもなれるのだろうか。

スポーツや芸術には「感覚で覚える」という部分がある。天才的と言われるような人たちは、まずその能力がずば抜けている。人が長い時間かかってやっと身につけるような微妙な感覚を極めて短時間に「体得」してしまう。けれど、「天才の悲劇」のモトも実はここにあるらしい。天才の悲劇とは「時代に合わない」、「スランプ」である。この二つは全然違うもののようでいて、実はほぼ同じものであるらしい。スランプとは「頑張っているのに同じことができない」ことだが、その原因は「体得するための方法論(論理的ステップ)がないこと」だということが最近の研究でわかってきたという。
―感覚的に体得できてしまうために、論理化するプロセスが築かれない―それが原因ではないか、という。“不器用な人”は“どうやったら彼(女)のようになれるのか”と研究せざるを得ない。それが「論理化のプロセス」である。これは多くの「天才でない人々」にとってのバイブルとなる。

そのバイブルに従って「天才に近い人」になるだけの努力と才能のある人、それが秀才である、と言ってもいいのかもしれない。「努力」と「才能」。やっぱり、秀才にもそう簡単にはなれないのである。天才を太陽に喩えるなら、秀才は月。どっちも遠いが、とりあえず人類は月には到達したので「あった」。