「普通の人」には名前がない

エスキース                                       これは失敗(^_^;)

土曜日(2017/7/22)から腰痛が悪化。全然歩けないほどの激しい痛みはないが、今回はこれまでと様子が違う。座っても横になっても痛みが無くならない。これはちょっと警戒を要する。

殆どの人が何らかの各種持病を持ち、殆どの人がそれぞれの個人的ストレスを抱えながら、しかもそれらを半分は諦め、半分は希望を繋ぎながら生活している。膝の痛みを10人に分けて1/10ずつにすることは出来ず、隣家の子どもの受験失敗のストレスを町内で分担することも出来ない。同期の昇進を喜びつつ、妻の愚痴を思い浮かべる人もいるかも知れない。人と人の間で、まったく同じ状況など一つもなく、一人の中でさえ次の瞬間のことは分からない。

けれど、「今日だった」日が昨日という言葉に置き換わり、想像もしていなかった「次の瞬間」が、何の違和感もなく「今日」という名前になっている「不思議」。「普通の人」が普通に歩いていて、その普通の人と自分とをいつも比較しながら、自分も並んで歩いている、普通と少しずれている「自分」。すれ違う人、隣の席の見知らぬ人は皆「普通の人」。「隣の人」には名前がない。

 

一杯の水 / Change by a cup of water

一杯の水を飲むだだけで私たちの考え方は変わる。ダイエットや健康サプリの話ではなく、暑い日に冷たい水を飲めば「おいしい」と感じるというだけの、当たり前の話。

もちろんご飯を食べても変わるし、何をしても(しなくても)変わる。さらに縮めていえば、私たちは瞬間ごとに変化し続けている、という誰もが納得する話。

なのに、一方で「ブレない」「一徹」、「優柔不断」。さっきまでの「納得」がどこかへ消えてしまった。こんなに急に(往往にして「矛盾」)変化するのが私たちだと知っておくことは悪いことではない。