「CGスケッチ」の(逆)効果

シャトレーゼのチョコパイを描く(制作中)

今日は一日中この2~300円台のチョコパイにかかりきり。ここまでで半分くらいまで来たかどうか。(CGの)手描きで、できるだけ自分の眼で見たまま描くことが、最近のこの“お菓子シリーズ”?のコンセプト。透明フィルムの包み紙の反射が目を傷め、「座りっぱなし」が脚の血流を悪くして睡眠障害を引き起こすのは解っているが、それがフィルムの透明感の表現に必要だと思うからどうしようもない。

手描きCGというのも変な言い方だが、紙と鉛筆、絵の具はCGだが、たとえば直線を描くツールや、グラデーションをきれいに処理してくれるツールを使わないとか、要するに「描画」に関しては、「実在の筆や絵の具で再制作可能」なことを前提にするということ。画像とその制作プロセスをデジタル情報として保存することだけを目的にしたCGによるスケッチを、わたしは勝手にそう呼んでいる。

CGだから、うまく描けるということはある。まず、「覆水を盆に返せる」。一度こぼした水はもとに戻すことができないという、文化人類学上数千年の「常識」をひっくり返して、失敗した線や色を簡単に完ぺきに消すことができる。いったん消した線を、数日(年でも)後完ぺきに復活することなど「常識」だ。他にもいろいろ有利な点はある。けれど、根本的にデッサンができない人が CGならデッサンができるようになる、という「魔法」はない。デッサン力は単なる描写力ではなく、観察力などを広く含む「総合力」だからである。絵は写真を下敷きに描けばデッサンが正確だとか、そういう次元で済むものではないのである。

けれど、たぶんCGで描く意味はそういう次元にとどまらない。描いている自分自身でさえ気づかないところに、より大きな意味があるだろうと感じるが、それが何かは今のところ自分でも判らない。1年前はCGで描くのが面倒で億劫。スケッチブックに描く方が(慣れているぶん)何倍も効率が良かった。なのに、今は完全にiPadがスケッチブック代わり。iPadに限らないが油絵や水彩同様、CGであろうと描き方、塗り方の順序を変えると難しくなったり、簡単になったりするから、時々実際に自分の「手」で描いているような錯覚に陥る。それが生きている感覚に与える影響は些細に見えて、たぶん「小さくない」。

「CGの方が良い」と受け取ってはいけない。実作の大きな利点は「失敗する」こと。CGでの失敗は、数秒でリカバリーできる。けれど、実作ではそうはいかない。失敗することで、脳だけでなく全身が活性化する。そこが「魅力」だと解るようになったのはCGスケッチの効果だ、と思う。人が「失敗から学ぶ動物」ならば、「失敗しないCG」はわたしたちを退化させる“絶好の道具”になるかも知れないですね(CGそのものはまったく否定していませんよ。念のため)。

感覚的と論理的

デモ制作を制作中(油彩・F8)

「天才的」と言われる人たちがいる。一般の人には思いつかないような発想と飛び抜けた能力で、若くして人類史的な一つの仕事を成し遂げてしまう人々のこと。学問の世界にはたくさんいるようだが、残念ながらそちらはあまり詳しくないので例を挙げられないが、スポーツならアメリカ大リーグ野球の大谷翔平(以下敬称略)だろうか。発想はともかく、彼のずば抜けた能力とその達成したものを見る限り、天賦の才能、つまり天才と呼んで差し支えないのではないかと思う。

同じ野球でもイチローには「天才的」と呼びにくいものがある、とわたしは感じる。「彼のずば抜けた・・・その達成したもの」を見る限り、彼もまた天才と呼んで差し支えないはずである。なのに、なぜ彼の場合そう呼びのに一瞬ためらうのだろうか。一つは「体格」。大リーグ選手の中ではイチローはかなり小柄である。そして、ホームランより、足で稼ぐような渋いヒット。アッという驚きより、「コツコツとたゆまない努力の積み重ね」の印象が強い。おもにその2つが彼を天才というより努力の人=秀才、というイメージにするのではないだろうか。しかし、本当は彼もまた上記の理由で天才の一人だと言えるはずである。

「天才」になる方法は無いし、それを目指すこともそれ自体矛盾である。しかし、天才も自分一人では天才にはなれない。大谷選手であれば、監督が彼を起用することが第一で、チームがいることが次で、それを喜ぶファンがいることがその次に不可欠だ。そのどれが欠けても彼は天才にはなれないのである。彼自身の天才とそうした環境が合わさって、初めて「天才」が生まれるのである。では「秀才」になら誰でもなれるのだろうか。

スポーツや芸術には「感覚で覚える」という部分がある。天才的と言われるような人たちは、まずその能力がずば抜けている。人が長い時間かかってやっと身につけるような微妙な感覚を極めて短時間に「体得」してしまう。けれど、「天才の悲劇」のモトも実はここにあるらしい。天才の悲劇とは「時代に合わない」、「スランプ」である。この二つは全然違うもののようでいて、実はほぼ同じものであるらしい。スランプとは「頑張っているのに同じことができない」ことだが、その原因は「体得するための方法論(論理的ステップ)がないこと」だということが最近の研究でわかってきたという。
―感覚的に体得できてしまうために、論理化するプロセスが築かれない―それが原因ではないか、という。“不器用な人”は“どうやったら彼(女)のようになれるのか”と研究せざるを得ない。それが「論理化のプロセス」である。これは多くの「天才でない人々」にとってのバイブルとなる。

そのバイブルに従って「天才に近い人」になるだけの努力と才能のある人、それが秀才である、と言ってもいいのかもしれない。「努力」と「才能」。やっぱり、秀才にもそう簡単にはなれないのである。天才を太陽に喩えるなら、秀才は月。どっちも遠いが、とりあえず人類は月には到達したので「あった」。

無題−2

無題ー2

Adobe社のFrescoというアプリにアニメの新機能が加わった、というニュースを10日前に知ったが、やっと昨日試すことができた。これがたぶん4個目くらいの試作だが、やっていると、「なんでこうなるの~!?」ということがいっぱい出てくる。1つ覚えると4つぐらいそんなのが出てくるが、それを繰り返しながら一つ一つ覚えていくしかない。道具の使い方を覚えるというのはそういうものだ。

この動画ももっと面白い動きがあったのだが、自分でも分からないうちに削除してしまったらしい。自分が何を削除しているのかさえ、よく分かっていない(今も)。これ以上なくならないうちに、とりあえず、お目にかけておくことにした。

こういう動画を時間かけて作るのがバカバカしいと思う人はいるだろう。わたしも薄々はそう感じながらやっているが、「それを言っちゃあおしまいよ」と誰かのセリフを頭の中で繰り返しながら、黙々と何時間もやっている。他にもやることはいっぱい溜まっているが、もう少しやらないとそれこそ無意味になってしまう、とか言って。

動画の内容に意味はまったく無い。けれど、逆にその無意味さに救われる。繰り返し見ているとなぜか笑ってしまう。そして、無意味な動画作りが無意味なのではなくて、やらなくてはと思っていることの方が何だか無意味なように思えてくる。結構まじめに描いては再生、描いては修正しているうちに、自分がこのドタバタのなかに入りかけてくる。もう少しクルッと回ろうかなとか。