風景

公園からーEvergreen (水彩)

風景ー美しい自然環境や、人間と自然の織りなす風土、歴史的環境などを描くもの。そんな風に多くの人は思っているし、私も長くそんな風に思ってきた。

絵というのはどんなものを描いても自画像だ、という言い方がある。もう少し私流に言いかえれば、どんなものを見てもそこにあるのは自分の投影だということ。寂しい人にはどんなものも寂しく見え、寂しいものしか見えてこない。

美しい風景があるのではなく、美しさを感じる心がそこにある、ということだろう。絵というものはきっとそうやってできているものだ。

銀座

 

銀座のショーウィンドウから

ここ3週間ばかり、頻繁に銀座へ行く。個展、グループ展。往復の移動時間がバカにならないので、一度に3つか4つ位は廻らないと、仕事でもないのに毎日銀座通いになってしまう。

銀座での展覧会は、多少義理絡みでないこともないが、無駄ではない。それなりに作品を見たいと思わせてくれる作家にしか、義理を感じないという鈍感さも持ち合わせているせいか、何がしかこちらに刺激というお土産を持たせてくれる。東京といえど、なかなかそうしたレベルは保てないが、銀座ではそれが「普通」。その意味では銀座は効率がいいと言える。

銀座といえば「虚飾」のイメージが、ずっと以前は私にもあった。だが、新宿などにくらべれば、銀座はずっと「素顔」で「素直」な街だと、最近は思う。少なくとも個展をやっている画家たちの殆どは、想像されるより皆ずっとずっと「素顔」で「素直」だ。というより、そうでなければ長くは続かない。

けれど、画家とかいう連中はみな、少しネジが緩むか、ずれていて、しかもそれを自覚できない人が殆どなので、そういったことが解るまでは、どこか別次元の世界のように感じる人もいるかも知れない。確かに街全体が少しばかりネジがずれた街かも知れない、が、そのズレこそ新しい世界への隙間なのに違いない。

自分に帰る

「モデル」 水彩 F10

とうとう12月。しばらく制作途中の絵から離れていた。1週間も遠ざかると、まるで絵の神経が切れてしまったかのように感じる。描きかけの絵を一日中呆然と眺めるばかりで、線一本さえ加筆することができない。

やがて感覚が少しずつ戻りはじめ、翌日くらいからやっと「自分」が帰ってくる。