Animal welfare

「男」の習作

「Animal Welfare」って知ってる?「食べられる牛にも、気分良く飼われる権利がある」ってこと。「でも、結局人間に食べられることに変わりはない。そこまでいうなら俺たちを食べなきゃいいじゃないか」、というのが牛の気持だろうが、人間の考えはなかなか複雑だ。

「世界の人(と言ってもセレブに限るのだが)」は、極めて幸福に暮らしていた牛(最も肉と油のバランスが良くなっている)が突然、何故か原因不明の(苦しまない)死を遂げ、(もちろん「屠殺」だが、セレブはそのことは知らないことになっている)その牛(肉)に感謝と哀悼の意を捧げつつ、恋人と二人で、(なぜか最高の職人によって焼かれた)その肉を彼らの美しい唇と歯と舌に運ばざるを得ないという、羨ましいような「宿命」があるらしい。

もちろんジョークである。基本は動物愛護の精神だ。そこから発展して、たとえ食用を目的に養殖されている動物でも、できるだけの尊厳と環境改善の努力を彼らのために為すべきだ、という考え方。無論そのこと自体に反対する理由はない。けれど、「ストレスのない状態で飼われた牛、豚、鶏の肉は、そうでないものより一層美味しい」と、私の日本的な耳には聴こえてしまう。Animal Welfare という語自体、建前といえば建前だが、そのおおもとはキリスト教的世界観にあるのだろうと想像はつく。

前回の「国際捕鯨委員会CWEからの日本の脱退」と繋がる話題。日本(政府)はこの「Animal welfare」を、私のような感覚で捉えているのではないかと想像する。相手はキリスト教的「動物愛護」の国内、世界世論に配慮しているのだと考えなければならない。数値的な正確さを言い募れば募るほど、お互いの距離は開いていく。「モリを撃ち込まれたら、痛くて、苦しいだろう?その痛みが分からないのか?」と彼等は考えているのに、鯨の頭数の回復だけを、口を酸っぱくして言っても、最初から平行線だということが解っていないのではないか。まずは、彼らの「Animal welfare」を謙虚に理解してみることが、大切かと思う。