防災グッズ

パンジー F6 アクリル 2011

防災ブームにあおられて、我が家でも水を2ケース買った。2㍑×6本×2ケース=12本=24㍑。妻が買うと言うから車で運んだ。水は1人1日4㍑で計算する。最低3日、出来れば2週間を備蓄すべきだという説に従うと、我が家は3人だから3人×4㍑×3日=36㍑が最少限。それに満たない中途半端な量の根拠は「だってお金かかるし」「場所も取るし」。確かにいざとなれば無いよりマシだが、2ケースの根拠が極めて貧弱。

私の知らないうちに彼女はライトも何種類か買っていた。そのうち電池の要らない手回しライトは試用中に壊れたし、ごく普通の手提げライトは何度か押しているうちにスイッチが戻らなくなった。数日前、電器店に行ったら私が現在愛用しているものと全く同じ型のLED小型ライトが山積みになっていた。全く同じ物なので、それらが不良品であることはすぐ分かったが、値段は逆に倍近く高くなっている。お店でもそれが不良品であるとは分からないのかも知れない。一応点灯するし、明るさもある。LEDライトの色が分離しているので不良品と分かるのだが、使ったことのない人にはおそらく分からないだろう。スイッチも異常に固いが無理に使えないことはない。しかし、ちゃんとしたものはラクラク使えるのだ。これはメーカーの良心の問題だが、どさくさの防災グッズ市場には、このような本来なら廃棄されるべき製品でさえ、ある程度出回っているに違いない。防災をグッズで安心したい心理につけこんでいるわけだ。

「ナショナル・ジオグラフィック」という米国発の雑誌がある。これは世界中の地理、風土から、生物学(生態学)、時には社会問題、宇宙・天文までおよそ人間と世界・地球に関わることすべてがテーマになっている。一本の記事は短いがどれも内容は深い。パソコンから資料をとって、机の上で作り上げるマスコミ論文の類ではなく、著者が実際に現地を歩く、写真とフィールドワークに徹した雑誌である。レポーターはほぼ全員それぞれの分野で活躍中の現役の学者やカメラマンで、この雑誌の為に何人ものカメラマンが命を落としているほどの、写真の迫力は別格だ。地球と人間社会への、本物の「探検の本」である。

その中で今年8月29日(1週間前)に発行された「世界のどこでも生き残る 完全サバイバル術」(2400円)を読んでいる。探検の準備・知識と防災への意識・備えは共通するものが多い。我が家のような、ヘボい防災グッズを買う前に一読したら、「防災」そのものの意識が変わるだろう、というより、より核心的な考え方のヒントを得られるだろう。震災をダシにむざむざいい加減なものを買わされるよりは、こちらの方がより優れた防災グッズだったのではないかと思う。2011/9/4

私の中のジャングル

シェルターの男 ミクストメディア F4 2011

民主党の野田政権が発足。ホオーッ!という感じだったが、まあそれなりかなと思う。その中で細野剛志原発担当大臣が再任。「この仕事をやりたい人は誰もいない。(私も)なにが何でもやりたいという気持ちは微塵も持っていない」。何ですか、この発言は?誰もやりたい人がいないから仕方なく(嫌々)やるという意味でしょうね?もしもポストに汲々としているわけではないと言いたいのだとしたら、あまりにも言葉足らずだ。京都大学の法学部出身で、現三菱UFJ総合研究所のリサーチ&コンサルティングの研究員をスタートとするキャリアにしては、中学生レベルの政治感覚しかない発言だなと思う。新内閣の閣僚インタビューという場の認識があるのだろうか?思えばこの国の政治家の、自分の言葉に対する政治感覚の欠如ぶりには呆れるというより恐怖を感じる。こういう連中が海外で何を喋っているかと思うと恐ろしいが、幸い?にして大多数はほとんど英語が出来ないらしいから安心?

政治など庶民の生活には関係ないやと目先のことにかまけた結果、私たちが生み出した政治貴族たち。彼らもまた庶民なんか関係ないや、と思っているのだろう。おあいこだとしたら、あまりにも哀しい現実だ。リビアやシリアでは若い人たちが命をかけて新しい政治、自分たちの政治を作ろうと戦っている。勝っても厳しい前途だが、その息吹はまるで幕末の志士達にどこか通じるようだ。世界はまだまだ若いのだ(逆にいえば日本はもう老いくたびれてしまったのだ)と、彼らの貧しさの中にもある種の羨ましささえ感じさせられる。

話題は180度近く変わる。ここ数年、得体の知れない怪物ともつかぬ、巨人のような 「男」と題する作品を発表し続けている。いつだったかギャラリートークで、その巨人の解説をした。毎年同じ話をするのもつまらないのでその後は内容を換えて話しているのだが、その時の解説で言わなかったことが(実は言いたくても言えなかったのだが)、ずっと私の中で反芻を繰り返している。「どうしてこういう絵を描くようになるのだろう?」ということだ。

それは表現の意図とか、内容とかいうものとは全然違う。ここ数年続けていると書いたが、さらに事実を言えば小学生の頃から既に今のような絵は時々だが描いていた。数年から十数年の間隔を措いて私の中に現れる、グロテスクと人に言われる絵。そのことが何を意味するのか私にもまだ分からない。だから人にも説明しようもない。自分の中の未知の部分を知りたい、あるいは未開の部分に入り込むのを畏れるような、そんな気持ちをずっと持ち続けている。  2011/9/2

バランスのいい食事(2)

ヤマボウシ 水彩 F4  2009

人間(に限らないが)は(将来は分からないが)食事を欠かすことが出来ない。生きることと食べることとは不可分のものだから、古来からたくさんの経験や考え方が蓄積されてきた。すべての文化の中心に食があるのは当然と言えば当然である。

その歴史の中で「食をカロリーとして捉える」という考え方は、極めて特殊である。ごく素直に考えれば、おいしさを味わいながら、食べたい分だけ食べるというのが理想の食事観だろう。つまり、見た目や匂いや味を中心に考える、感覚的な判断に依る方が普通ではないか。そこにカロリーや栄養素という、感覚で捉える事の出来ないもうひとつの判断基準を持ちこんだのが、現代の食事観ということになるだろうか。

さらにもう一度素直に考えれば、カロリーや栄養で食事の質、量を規定していく考え方は食生活の習慣による病気が次第に知られてきた現代に合わせた、別の言い方をすればお医者さんの側(行政側からも)からの発想と言えるのではないか。楽天的な発想ではないが、健康観、幸福感が変わってきたことに対応しているということだろう。ともかく板前さんからの発想ではない。

現代において「バランスのいい食事」と一言でいえば、この感覚的な食事観と医学・予防的な食事観とのバランス、そしてカロリー中心に偏ってはいるが、栄養とカロリーのバランスのいい食事ということになるだろうか。

いささか結論を急ぎ過ぎだが、そういう意味でバランスのいい食事と言えば、実は糖尿病食(という言い方は正しくないのだが)だということを再認識したと言いたいだけなのだ。かつての糖尿病食は「不味いが病気治療のためには我慢するしかない」と言われたらしいが、最近は相当に工夫され、味覚的にも量的にも十分満足するように思われる(少なくとも私には)。何より、体から無駄なものが抜けてスッキリしていく感覚は小気味良いものではないか(と想像する)。

貧しい食事だと誤解していた糖尿病食こそ、実はバランスのとれた健康食であることに、恥ずかしながら全くの無知であった。バランスのとり方、考え方もまるで自分を主人公にしたゲームのようだということも初めて知った。

覚えたての知識をひけらかそうというのではない。その反対。私の食事をそのバランス感で見ると、実に滅茶苦茶なものだ。よくもこれまで大した病気もせずに過ごしてきたものだと、運とDNAに感謝するばかり。知らないということは恐ろしい。  2011/9/1