できることしかできない

カプセル(未完)F4 MX 2011

出来ることしかできない。馬鹿みたいな言い方だが、実際自分の能力を越えたことをやろうとしても出来るはずはなく、自分の能力の範囲内で出来るはずのことさえ、実際にはなかなか出来ないものだという、極めて現実的な意味である。

しかし一方では、自分の能力がどれほどのものなのかは、やってみた結果でしか分からない。結果が出ても、もう少しやれるかも知れないという感じを抱くこともあるだろうと思う。

それに、能力というものには絶対的なものと、相対的なものとの両方があるようにも思う。絶対的なものとは、例えば先日行われた世界陸上のように、100mを何秒で走れるか、など。相対的なものとは例えば相撲のように勝ち負けのあるもの。詩を作ったり、絵を描いたりするのはどちらに近いのだろうか。

先日あるエッセイの中に、「相手と自分が同じくらいと思ったら、大抵は相手が上」というのがあった。自分のことは過大評価、他人のことは過小評価するものだという意味だろうか。評価とはもともと自分でしてはならないものなのだけれど。

それでも、自分の能力とか、自分ができる限界とかを考えるのが凡人の常というものだ。運転中にも関わらず、古今の画家たちの死亡年齢と傑作を描いた時期とを漠然と考えてみた。レオナルド・ダ・ヴィンチ享年67歳、受胎告知の制作が20歳頃。ラファエロ享年37歳、バチカンの大作「アテネの学堂」が26歳頃の制作。同じくピカソ92歳、20世紀絵画の幕開け「アビニヨンの娼婦たち」が26歳頃だ。ゴッホ、ロートレックがいずれも37歳で没。エゴン・シーレ28歳。クリムトに認められたころはまだ17歳だった。などと考えると、私などが自分の能力などという言葉を使うこと自体、身の程知らずだという気持ちになる。

けれど、絵を描けば愉しいことに変わりはないし(苦しいことにも変わりはないが)、生きているうちに止めることなどできるわけも無い。とすれば、そんなこと考えたってしょうがない。自分の好きなことをやれるだけやればそれで十分、と思うよりほかにない。結果など考えるより、今やれることを目一杯やる以外に選択肢は無いのだと考えていたら、知らずにアクセルを踏み込んでいた。運転中に出来ることは安全運転を心がけることだけである。