スケッチ:手描きとCG

ふるさとの川を描く2

ふるさとの川を描く3

「ふるさとの川を描く」2,3は数日前に撮影が終わり、時間が取れ次第ビデオ編集にかかる予定です。来週中にはどちらかをYouTube にアップしたいと思っています。編集作業がもっと手慣れてくるといいのですが、いまのところは一生懸命やっても全てにおいて非常にノロい。

「青いカモメ絵画教室」では、千葉県野田市で来月スケッチ会をする予定です。その際に水平線の探し方、位置の決め方などスケッチの参考になるようにと、「川」とは別に5本の動画を撮影しました。ノロノロのわたしですが、少なくともそのうちの1本は今月中にアップしたいと考えています。ご期待ください。

YouTube の「青いカモメの絵画教室」は昨日視聴3000回を越えました(パチパチ)。最初の1000回までに10カ月、2000回までに2ヶ月、3000回までに一カ月半、とだんだんペースが上がってきています。数字の魔力というか、数字に励まされるというか、もう少し頑張って続けようという気持ちになることは確かです。いわゆるユーチューバーの人たちの、1日で数万回というのに比べるとまさに月とスッポンですが、「千里の道も一歩から」。とりあえず「最初の一里」を目標に、半歩ずつでもいいから進めていけたらいいなあ、と思っています。

絵はフェルトペンで描いたものですが、これくらいなら実はCGでも十分に描くことができそうです。単純にリアリスティックというなら、CGの方がさらにグレードを上げることが可能です(スピードは慣れのせい?で、今のところは手描きの方がCGより10倍早い)。でも、YouTubeから感じるのはやっぱりCGより手描きを見たいんだなあ、ということ(わたしの場合だけかも知れませんが)。何かホッとするものを感じながらビデオ編集を続けています。

不要なものは不要ではない

17年前のブログから

17年前はブログ(当時はホームページと言っていた。2代目のホームページ。現在のブログ「青いかもめ」は3代目にあたる)にこんなのを書いていました。懐かしい。そして今もその気持ちは変わらない。

ブログも最初はスケッチブックに描き、それをスキャンしてからアップしていた。寝る前に書くブログは時に面倒でもあったが楽しかった。2代目はパソコン上で描いたものが多くなった。現在のブログは3代目にあたる。

わたしのパソコンの先生は、彼が幼稚園児の時からずっと息子。まだひらがなも読めない時に、”press any key ” を「これはどれかのキーを押せばいいってことだよ」とわたしに教えてくれたのには驚いた。パソコンをあちこち触りながら、文字と操作を結びつけたのだろうが、その洞察力の凄さに驚いた。ローマ字を教えたらあっという間にローマ字入力をするようになった。

こういう手作り感のあるブログはいいものだ、とあらためて思う。例えば文字も絵も確かに「情報」でもあるけれど、手書きの文字には「不要な情報」がぎっしり詰まっている。不要な、とは例えば意味の伝達という意味では文字の硬軟や微妙な掠れなどは不要な要素にあたるだろう。けれど「○○さんの字」という意識から見ると、それは不要どころか、それが本質でさえあり得る。「旅」と「旅行」は違うという人がいる。目的地までの時間は短かいほどいい、と価値観が一辺倒になるのは寂しい。絵を描く原点もきっとそこにある。

リンゴ園の青い空

りんご園の青い空 (CG)

 100号のアイデアを小品用にアレンジしてみたが、さすがに単純に小さくした部分は細かくなり過ぎる。小品と大作では、作品に対面する距離感が全然違う。距離が違えば見る(見える)ものが異なる。モチーフが同じでも、サイズ(距離感)にふさわしいメッセージにしないと、伝わるものも伝わらなくなる。

斎藤典久さんの個展に行ってきた。アイルランドのアラン島という島に、もう30年以上通っている。その島自体に染みこんだ時間を絵画にしたいという。彼の絵を見ると、画家というのは歴史家であり、風土史家であり、地質学者であり、地政学者であり、気候学者であり、ペシミストであり、同時にオプティミストでもあるのだと思う。そしてそのうえに「絵の具を扱う専門家」。

今日上野の西洋美術館で「ピカソとその時代」展も見てきた。パウル・クレーの作品も思ったよりたくさんあった。わりと小さな作品が多かったせいで、これまで見たことのない作品が多かった。発表用の大作と違い、小品は一言でいえばビジネス用でもあるし、トレーニング用、研究用でもある。そこには作家の、大作に表現されるものとは別な一面が現れる。小品を見ると、ピカソの“意外な” 繊細さ(まじめさ)が感じられた。

しかし、何にせよ、今は絵を描くことが難しい時代だと感じる。無心に、平静に、楽しく絵に向かうことができない時代だ。マスコミ用語では「時代を超える」などと簡単に言ってしまうけれど、生身の人間にそんなことなどできるわけがない。たまたま、無心に、平静に、楽しく描けてしまったとき、タイムマシンに引っさらわれたように、結果として越えてしまうことはあり得るとは思うが。