腐っても鯛

鯛のカブト焼き

「腐っても鯛」という言葉が今も(本来の意味通りに)使われているかどうか、甚だ心もとない。「鯛は腐りやすい」とか「鯛は高級魚なので、もったいないから腐っても食べる」という意味だ、という珍答(怪答?)をどこかで見た記憶があるからである。

「腐っても鯛」を辞書で引くと「本来高い価値を持つものは多少悪くなっても品格がある」というほどの意味だとある。少し前になるが「武士の一分(いちぶん)」という映画があった(藤沢周平原作、山田洋次監督)。武士にとっては屈辱的というほどの仕事をさせられてはいても、心の中の武士の魂は失わないという男の姿を描いていたが、最近、そういう心情がやっぱり大切だと思っている。

特に芸術と呼ばれるものには高い価値観が不可欠ではないか。「お高くとまる」などと揶揄されることも多いが、それなりの品格を秘めたものからでなければ深い感動は得られないという気がする。一見ゲテモノ風であったり、エロティック、あるいは子どもじみた風貌であっても、ある種の気高い鋭さというか、底光りする輝きというか、そういうものを求め、内蔵していないものは結局本物ではない。それに気づき、磨き、身につけた人だけが、そこにたどり着けるもののような気がする。けれども、そこに至ったとしても、気づかない人々にとっては「腐った鯛」に過ぎないかも知れない。

わたしは鯛が好きである。腐った鯛はもちろん食べない。刺身もいいが、どちらかと言えば頭、カブトの方が好きである。面倒だからお吸い物にはしない。ひたすら単純なカブトの塩焼き専門である。そして目玉から食べる。刺身は一つの味しかなく、それもワサビと醤油のレベルに左右されるが、頭には数十種類の異なる味、触感があり、刺身の比ではない。そしてそのいかつい顔に似合わない上品な味。丁寧に鱗を取り、上手に焼けばその皮もまた味わい深い。まさに腐っても鯛、なのであるが、食べるには少しでも鮮度の良いカブトを選ぶのがよい。