人生の絵

           Oさんの作品「無限」2021      F30 アクリル

青いカモメ展が始まった初日、悲しい知らせが会場にいるわたしにひっそりと届いた。

5日前の午後、予定の時間よりだいぶ遅れて、公民館2階の絵画教室に彼女の絵が届いた。でも本人がいない。聞くと1階には来ているという。絵を運んできたのは公民館の職員。なんでだろうと思っていると、その人が車椅子がどうこうとか呟いた。誰が車椅子?と思っているうちに本人が来た。「階段がきつくて」登れず、遅くなったという。心臓が悪いのだ。肩で息をしている。

こんな時になんで無理して持ってくるんだ、休まなくっちゃ、とわたしは言ったが、どうしても見てもらいたかった、と言う。絵が届いたとき、最初の一瞥で彼女のこれまでで一番の絵だと思っていたので、そう告げた。「少し修正するとすればここ」と欠点とも言えないような小さな点を指摘した。でも、今やらなくてもいい、まずは体を大事にして休まなくちゃ、と付け加えたが、まさかそれが最後の会話になるとは思っていなかった。

作品の配置計画を考えているとき、わたしは彼女の絵を目立つところに置こうと決めていた。もちろんどこにおいても目立つ絵ではあったが、同じように悩みながら描いている仲間に、こんなふうにのびのび描けばいいんだよ、と彼女の絵を通じてメッセージを送りたいと考えたからだ。ある意味で、彼女は今のわたし自身の絵に対する問題の一部を肩代わりしてくれていた。線と面の関係、それらと色の関係という造形性の問題。そしてそれと「作者個人」を結び付けるという、まったく次元の異なる、でも芸術にとって避けて通れない課題に対する追及を、彼女はわたしと同じゴールを目指して進めてくれていた。たぶん、彼女自身もそう感じていたと思う。それはある意味で楽しくもあったろうが、結構きつくもあったに違いない。そして、わたしより一歩先に見事な答えを出してくれた。

残念という言葉ではたりない。時間が経つにつれてだんだん喪失感が深くなってくるが、そう思いながらも半分くらいは、まだ何かの間違いではないかという気持ちが拭い去れない。次の絵、その次の絵も見せてもらいたかった。彼女はこのブログもよく読んでくれて、時々感想も聞かせてくれた。それを聞きながら、次のブログで関連したことを書いたり、それに関わる絵を載せたことも何度かある。絵を見ると、そんなこまごましたことも含め、彼女の人生がすべてそこに描かれてあるような気がする。