ちゃんと開催する努力が感じられない

3個の西洋梨(加筆)

「ちゃんと開催する努力が感じられない。」アメリカの通信社の記者が「東京オリンピック2020」の海外メディアへの対応について語った言葉らしい(文春オンライン、7/17配信。及川記者)。なるほど、でもあり、やっぱり、でもあった。

このように大きなスポーツの世界大会では取材するメディアへの素早く、責任あるレスポンス(応答)とサービス(情報提供、代替案の提示など)が主催者には求められる。コロナ禍によって人の移動が制限される中では、さらにオンラインでの情報サービスが普段以上に必要だ。このコロナ禍の下での開催は、通常の大会以上に周到で、責任が大きく、難しい準備を強いられるのは仕方ないとしても、メディアからの疑問やリクエストへの対応が、アメリカ国内の一競技大会にも劣るのはどういうことか、というものであった。

コロナ禍での開催準備は、確かにこれまでの開催都市には無い特別な難しさがあるだろうとは誰でも想像できる。その対策と準備を両立させることが難しかったから一年延期したはずだ。コロナ対策は状況によっても大きく変化する。準備も影響は受けるが、コロナに関わらず進められる分野もあるだろう。国内外のメディアだけでなく、教育機関、文化施設などからの取材、提供のオンライン化への一層の推進、進化。大学のオンライン授業、企業のテレワーク化を進めているなかで、「水際作戦」などと言っているより、そもそも取材に来日しなくても済むほどの(オンラインによる1:1インタビューも含め)豊富な情報を提供できるようなシステムを作れないか、とか。そんな準備が過重ならば「中止」という選択肢もあった。

オリンピックに限らず、国会やニュースなどでも常に見られるように、いまの政府や組織の情報の出し方は、何が求められているかではなく、行政側が「何を見せたいか」に一方的に偏っている。「できるだけ見せない、知らせない」「誰が責任者か明らかにしない」といった、「お上」の発想からまったく抜けていないどころか、むしろ逆行しているとさえ事あるごとに思わされる。「伝えたことだけ持って帰ればよい」という威張った態度から、「行政はサービス業なんだ」という発想に変われない。それは国民が選挙を通じて要求しなかったからであるが。そのような発想、態度が世界のメディアを苛立たせるのだろうと想像するのは容易である。

何のための一年延期だったのか、一年の延期の間にどんな努力をしてきたのか、その結果がこの程度なのか?という、主催者に対するがっかり感が目に見えるようだ。