ワクチン接種してきたが

木立ベゴニアが今年も満開

菅首相は、首相就任にあたっていみじくも「自助」を第一に挙げた。その真意は「自己管理」ではなく「自己責任」であった。要するに「てめえのことはてめえでやれや」という、江戸時代以前の農村的な、社会保障のない時代を前提にした一種の根性主義だろうと誰もがうっすらと、けれど敏感に感じ取った。その後のオリンピックの有観客に固執する彼の姿を見て、誰もがその解釈で間違いではなかったと確信した、はずだった。けれども、ワクチン接種で情勢は彼の思惑通りにコロナ、じゃなかった、コロリと変わった。「無料で接種できて有難い」。無料の意味も解らなくなった高齢者の列に、わたしも加わっていることを感じた一日。

昨日(7月10日)コロナワクチン(1回目)を接種した。接種から1日以上経った現在では、「少し腕が重いかな」程度。2回目の接種予定は7月31日。7月中に接種完了を標榜していた国の計画から計算すれば、高齢者の中では一番最後の日程のはずだ。

接種を待つ間ちらちら眺めていると、少なくとも高齢者のあいだではコロナへの恐怖感はすでに相当薄くなっている、と感じる。ついこの間まで「怖い、怖い」だけだったのが、ワクチン一つでいとも容易く「安心、安心」に変わっていく。二回の接種を終えた人たちが、浮かれるようにあちこち出かけるのを止めることはもうできないだろう。このままいけば、秋の行楽は夏に倍した花盛りになるに違いない。

つい先日までのコロナ対策でのすったもんだや、医療体制の不備とか多くの指摘、提言された事柄などは、あっという間にその「安心、安心」の中に埋もれていく。そして、数年後またそっくり同じことを繰り返すだろう。「反省」のポーズしかしない国、自分や人間について深く考える習慣もなく、そうした教育もしない国では、災害も幸福もすべてが「運」(という名の人まかせ)である。でも、それがいまの日本なのか?わたしたちって本当にその程度の思考レベルなのだろうか。「国民とは、自分がたったいま溺死させられていることさえ解らない人のことだ」、という言葉を思い出す。