「安心・安全」と「お・も・て・な・し」

大根

美しい言葉でも、政治家が口にするととたんに薄汚れた感じがするのはなぜなんだろう。

オリンピックという言葉自体はべつに美しい語でもないが、今ほど地に堕ちたという語感はなかった。安倍前首相が「完全な形での開催」を求めてオリンピックを一年延期した。その方向性をできるだけ忠実に受け継ぐと宣言した菅首相がオリンピックにこだわるのは、いわば公約である以上当然と言えば当然だが、首相自身がかつて感動したと述べるオリンピックの、あるべき姿を引きずりおろし、踏みつけ、穢れたものにしているのが当の本人であり、馬鹿の一つ覚えのように繰り返される「安心・安全」であることに気がついていないのだろう。開催のためには「安心」も「安全」も振り返らない、異様なほど心のこもっていない、からっぽの語。

「お・も・て・な・し」は、フランス語の喋れるある美人キャスターが、オリンピックの招致キャンペーン・スピーチで使った語である。「おもてなし」は日本の美しい文化であるという内容であったと記憶しているが、現代の日本では「おもてなし」≒「おもて(うわべ)だけ」か「その気があってもそんなカネは無い」というホンネの、ブンカ(=文化?)的言いかただということを、ほとんどの人が感じている。現在のコロナ禍など当時は知る由もないが、もしもこの災難がなく、多くの外国人が日本を訪れていたら、「お・も・て・な・し」文化がいかなるものか、たくさんの、二度と消えない思い出となるに違いない。彼女のスピーチを聞いた時から嫌な言い方だと思っていたが、さすがに恥ずかしくていまは普通の人には使えない語となった。

あと3週間で開会式、とニュースで聞かないと思い出さないほど、近くて遠くなった「東京」でのオリンピック。やる以上、これまでのいきさつに関わらず、選手には頑張ってほしいと思うのは自然な感情だろう。だが、選手たちが活躍すれば(つまりメダルをたくさん取れば)、開催を押し切った自分たちのポイントがあがる、と選手や国民をなめた見方をする政治家がいるならば、それはまちがいであることを思い知らせてやりたい。選手個々の目標はメダルであってもよい。けれど、どの国の、どの選手にも、実力を発揮してほしい(メダルなどどうでもいい)、と多くの人は素直に望んでいる。その素直な気持ちをも、また政治家どもが利用しようと企んでいるらしい。「安心・安全」にも「お・も・て・な・し」にもご用心、ご用心。