坦々と

アジサイ(CGスケッチ)

「坦々としている」ひとはわたしにとっては「カッコいい」。ごくごく小さい頃から、わたしは自分がパニックに弱い人間だと自覚していた。そしてそれは数十年たった今も変わっていない。

人間の世界では、わたしは間違いなく「臆病なひと」。勇気なんて持った記憶はないし、団体で行動するにしても3列目がせいぜいだ。先頭で旗を振る人はもちろん格好いいが、それよりカッコいいと思えるのは旗を持たずに先頭に立つ人であった。

わたしにとってのリーダーシップは、つねに先頭にあり、責任を一身に引き受けてなお「坦々としている」ことだが、それはわたしとは正反対。そんな人にあこがれるのは当然だとしても、あこがれるだけで、けっしてそういう人になりたいと思わないのが「臆病」ということだろう。子どもの頃のわたしを、母は「怖がり」だと笑っていた。恥ずかしかったが事実だからしょうがないと、あえて反論などした記憶もない。

年を取ったせいか、「坦々と」の意味がリーダーシップとは無関係になり、文字通りの「坦々」に変わってきた。「坦々と生きる」ことが実は意外に難しいと感じてきたからだろうか。最近のわたしは以前より少し(事前に)準備するようになった。いや、そうしないと何もできなくなってきたのである。以前はすべてが「行き当たりばったり」。それを若さと間違えてくれた人もあるが、実態は、未来を想像し、それに備え、準備する感覚と能力がなかっただけだった。振り返ってみると、これまで何とか無事に来られたのは単なる幸運ではなかったかとさえ思える。転変の激しい現代では、そんな偶然性だけであらゆることを乗り越えていくのは無理だと、やっと多くの人の通った道をわたしも踏んだからなのかもしれない。