傲慢 — 2

アジサイ(CGスケッチ)

(前回の「傲慢」より続く)
「自分は正直で謙虚だ」と思うことがすでに傲慢だって?じゃあ、自分をことさら卑下しない限り、みんな傲慢だということになっちまうじゃねいか!って、怒りのあまり語尾がもつれちゃったりする気持ちはわかるが、でも、そうなんだと言おう。

自分は傲慢ではないと思うことが、すでに傲慢だ、と言い換えてもおこう。同じように「私は謙虚だ」と思う人は謙虚ではなく、やはり傲慢なのだと言い換えておく。これはただの言葉遊びではなく、むしろ本当の意味で危険な思想だといえるかもしれないから。

どういうことか。—多くの場合、わたしたちは自分のことを「ごく普通の」「常識的で」「特に優れたところもないが(多くのばあい謙遜である)」「特に悪い心を持っているわけでもない」人間だと考えている―だから。だから危険なのである。正直で謙虚で普通で常識的でほとんど何の取り柄もないと公言する善人だからこそ、危険だというのである。それが「普通」である以上、「それ以外」はある種の異質な存在であり、はっきりした輪郭のない「普通」の人が、いつのまにか、ほんの少し自分と違うだけの他人を排除する側に立ってしまっていることに気がつかない。自分自身が「普通の」ど真ん中であり、他が偏っているといつの間にか錯覚してしまう。

「正直で謙虚で・・・善人」なんていないのである。少なくともわたしはそうではないし、たぶんあなたも実はそうではない。時には都合のいい嘘をつく、または都合の悪い事実を隠し、人には嫉妬し、ちょっと得意なところを何となく見せびらかし、取り柄がないと口では言いながら「少なくともお前よりはマシだぞ」と目の前の人を(心の中で)見下し、嫌な奴はみな死んでしまえなどと考えている、それがわたしであり、ひょっとするとあなたも、ではないだろうか。

会食自粛を人には強いておきながら、自分たちは悪びれもせずに会食した政治家たちがいる。「政治家は人に会うのが仕事」とうそぶいたが、こういうのを典型的な傲慢という。けれど、誰が見ても傲慢であるだけに、気分は悪いが実害は少ない。反面教師の好例にもなるし、選挙で落とすこともできる。だが、「普通の人」の「大多数」は誰にも止められない。ひとりひとりが、ある意味では全員少しずつ異質な存在であり、けっして正直や謙虚なだけではない、裏も表もある人間なのだと認識しない限り、誰にも止めることはできない。その怖さをわたしは日々ひしひしと感じる。