ハッチングは癒しの効果?

Capsule-2 (part) f4 Mixed-medium

1か月くらい前から、やたらにハッチングを多用している。ハッチングとは面相筆のような細筆で、細かく線で描き込んでいくテクニックのこと。薄い絵の具を何度も重ねて一本の細い線を描く。つまり一本の線の下には数本、または十数本の線が積み重ねられていることになる。

ハッチングは、油絵技法が完成する前の、テンペラ画に主に使われていた古典技法のひとつだが、現代では描写的、説明的との理由でほとんど使われなくなっている。私自身もここ数年は半ば封印状態だった。なのになぜ今になってそれを多用するのかといえば、頭よりも目と手だけ、時間と手間だけが膨大に必要な単純作業によって癒されるからだ。

震災の衝撃から1か月後、私自身にもひとつの問題が起きた。表面だけ見れば、私自身の判断ミスによる小さな問題のようだったが、その根は深く、私にとってはこれまでにない深刻なものになった。

精神的なショックで絵が全く描けなくなってしまった。人の噂や人の口。他人だけでなく自分をも信じられなくなり、これまでやってきたことがすべて無意味だったのではないかと強く感じた。新たな作品に気持ちを向けようとしても、そのことが頭から離れない。同時に、絵の方から厳しいしっぺ返しを受けたのだとも私は感じた。「生活のために絵画講座や絵画教室などを開き、いつの間にか最優先すべき絵のことをおろそかにしてしまった。これは絵が私に下した罰なのではないか」。

余計なことを考えずに細い線にひたすら没頭できるハッチングが癒しになっている。

85歳の初個展

今日、85歳を記念しての、初個展をする人(女性)の作品陳列を手伝ってきた。油彩画11点、水彩画23点の見ごたえのある会場になった。明日が初日で、会期は4日間のみ。会期中は晴天に恵まれそうだ。

絵画は全くの趣味。好きというだけで描いている、そのピュアな良さが存分に出ている好い個展だ。プロでなくても、公募展、グループ展などに出品するだけの相応の力のある人や、逆に公民館活動などによく見られる、「勘違い」レベルの人(絵だけのことです。失礼)のどちらでもない、つまり、ごく普通の絵の好きな人が、ことさらな邪欲のないまま、まるで子どものような単純な向上心を持って、素直に描き続けてきた、屈託のない絵がそこにある。

器用では全然ないが、無神経でもない。上手くはないが、それなりの工夫はある。斬新というほどのことはないが、古さを感じさせない。つまり、それなりの、見るべきところはある絵画展なのだ。

こういう絵は実際にはどこにでもあるはずだ。が、案外に見ることは多くない。それは何故なのか?それは、より上手くなっていわゆる公募展レベルになっていくか(この場合、必ずしも良い意味には使っていない)、あるいは駄目なままか(言葉が大変悪いが半分くらいジョークとして受け取って下さい)、変な考えに毒されて更に駄目になる場合が多いからではないかと、私は以前から考えている。

素直な向上心(素直なだけでは物足りない)を持ち続けることが、難しいということなのだろう。この人の絵の仲間のお一人が最近亡くなったが、その人も、素直な向上心を持ち続けた方だった。良い仲間は大切だ。その仲間を喪ったことが、今度の個展を後押しした理由の一つであることは(聞いてはいないが)確かだと思う。 2011/5/18

シェルターの男(習作)

シェルターの男  f40 Mixed-medium 2010

何枚目かの「シェルターの男」である。最初の「シェルターの男」は、防波堤のような、コンクリート状の壁の背後にうずくまっていた。手、足のあたり、頭部だということは分かるが、その手が何かを持っているのか、胡坐を描いているのか、足を投げ出しているのか、顔らしきものが感じられるが、それがどちらを向いているのかはっきりしない。それが第1作だった(2010秋)。

やがてシェルターがカプセル化し始めた。カプセルは外界から自分を守る、あるいは他と孤絶するためのものだが、カプセルの中の逞しい男はどう感じているのかは分からない。

「男」と書いたが、本当は女なのか不明である。いずれにしても、あまり愛嬌のありそうな感じは無く、人の形はしているが、少し野性動物に近い感じである。とすれば、このカプセル様のものは実はカプセルではなく「檻(おり)」なのかも知れない。誰かが閉じ込めたのだろうか。

今から30年くらい前、「檻」というシリーズを描いていたことを思い出した。