「力による平和」ってなんですか?

「人物習作」 水彩   (写真は本文とは関係ありません)

「力による平和」ってなんですか?「弱肉強食」とか「武力鎮圧」とどう違うんでしょう?冷戦時代の「力による均衡」というワードとは少し違うようです。

トランプが言い始めた?このワードは、一人の強いギャングに歯向かうものがいなければ、それを平和と呼べ、という意味にわたしは感じます。要するに「独裁者」になりたい、と彼は言っているんでしょうね。民主主義を嫌い、プーチンや金正恩が大好き、というより尊敬しているのはそういうお手本だからなのでしょう。

(とんでもないことに)アホなマスコミばかりか、最近ゼレンスキーまでもが「力による平和」という言葉を使い始めたらしい。ロシアとウクライナが武力的にイーブンになればそれが平和だということか?確かに毎日ミサイルが飛んできて、毎日誰かが戦火の中で死んでいくという状況よりましだとは言えるけれど。

トランプが独裁者に憧れ、自分もそうなりたいと望んでいることはもちろんMAGAの人々も知っているはず(彼がゼレンスキーを「独裁者」と揶揄したのはどういう頭の構造なのか解らない)。でも彼らの興味はそ程度のものではないらしい。トランプが「本物の神」かどうかを見守っているのだという。もし神なら、何をしてもそれは「思し召し」。人間どもが人間のレベルで批判することのほうが間違っているのだそうだ。そうしたアメリカ人にとっての「神」はわたしにはとうてい理解不可能のようだ。

耳を澄ます

「オルガ:グレーの冒険」  水彩

最近耳がかなり遠くなった。とうとう耳鼻科へ行ってきた。「耳垢で詰まっちゃってますね」。やっぱり。綿棒で押し込んでしまう癖がついてしまった。綿棒を傍に置かないことにしよう。

ついでに聴力検査もし、補聴器の試聴もしてみた。確かによく聞こえる、雑音までも。耳が良く聞こえる、ということはこんな雑音の中で生きているということか、とも感じたがそれも一瞬のこと。人間の脳というのはよく出来ていて、不要だと思えばサッとシャットダウン、すぐにその雑音に慣れ、聞こえなくなってしまう。それで目の前のことに集中できる。

明け方、目覚めのほんの数舜、わたしは自分の声を聞くことがある(ような気がする)。身体の声、脳の声。それらは耳で聞こえるような物理的な音ではない。が、なぜか耳を澄まさないと聞こえない。

グリザイユを応用する

「秋(グリザイユの習作)」  水彩

逆光の人物をグリザイユで描いてみる。グリザイユというのは、油絵の古典技法のひとつで、まず白黒で立体感まで描いてしまい、それから透明な絵の具を、それまでの陰影の上に重ねていく描き方。基本的には油彩の性質を生かした技法なので、それを水彩に応用しようとしても、原理的に無理なところがある。(グリザイユについては当ブログ8月15日、22日をご覧ください)

水彩でのグリザイユ(と言っていいかどうか悩むが)では、失敗しにくい描き方だと言える反面、途中で変更することが、ふつうの描き方の時より難しい。それに、最初にグレーで描き始めるため、水彩独特の軽く、変幻自在な色の世界を失うという、原理的なハンディを出発点にする技法になる。紙も一般的な安価な紙は使いにくい。

でも、それらは技法上の問題であって、絵画としての問題ではない。絵画では材用や技法のことなどどうでもよく、見る側あるいは描く側にどんな心象を与えるかだけが問われる。

絵画は「見るもの」だが、わたしたちはいつのまにか絵画を「読む」ようになってきた。予備知識があれば、「より深く絵画が分かる」ような気がするからだろう。
 何が描いてあるか歴史上の意味や、技法上のことを知らなくても、「この色がきれい」「この線の迷いのなさがすごい」などという、見方というより感じ方を、もっと大切にした方がいいと思う。リンゴを皮のままかぶりつくとき、皮を突き破る自分の歯や滴る果汁を感じる瞬間を失いたくない、と思うから。