はだかになること

チューリップ(描き始めの頃)  F6 tempera on canvas

絵の世界では「はだかになれ」と流行語のようによく言われた。かつては日本の洋画(というのも変な言い方だが)をけん引してきた美術団体の一つ、二科会では「裸まつり」と称して上野の山からビーナス(美の女神)役の女性を神輿に据えて街なかへ繰出したものらしい。この「はだか」は裸体という生モノであるが、もちろん精神的な「はだか」=「解放」の象徴である。

毎日はだかで制作しただけでなく、来客までもみな裸にしたという「説教者」のようなオジサンや、はだかで真昼の女子高校の周りを一周して「精神を鍛え」ようとした猛者?も実際に少なからずいたようだが、「はだか」になることが大事だと言われるのは絵の世界に限らない。ほぼすべての芸術領域ではよく聞かれる言葉であった(芸術以外の領域でもあるようだが)。

じつはわたしも、何度もそう言われた経験を持っている。多くの人は心を開放する意味での「はだか」より、実際に人前で裸になることの方が難しい(恥ずかしい)と考えているだろう。けれど、おそらく現実は逆で、心をさらけ出すほうが何倍も難しいとわたしは思う。人のこころは火山に似ていて、「さらけ出したい」或るものと、それを抑圧せざるを得ない理性・トラウマなどとの「摩擦熱」をマグマのように蓄えていなければ、人前に自分のこころをさらけ出すというエネルギーなど生み出せないからである。

こころを開く―はだかになるって、どういうことなんだろうか。「やりたいことをやればいい」だけじゃ、ヒトも動物であるという自明のことを再証明するだけだ。たとえば表現者なら、何を、どう、どのレベルでやりたいか、それを傍若無人にやってみる、人からどう思われようと構わない、それが「はだか」の意味だろうとは思う。けれど一方で、人は人と人との間で生きてもいる(だから人間?)。根本的な矛盾を抱えている。その矛盾の隙間に根を張るもの、それが芸術かも・・・などと考えているようじゃ、はだかなどにはなれそうもない。

ワクチン接種してきたが

木立ベゴニアが今年も満開

菅首相は、首相就任にあたっていみじくも「自助」を第一に挙げた。その真意は「自己管理」ではなく「自己責任」であった。要するに「てめえのことはてめえでやれや」という、江戸時代以前の農村的な、社会保障のない時代を前提にした一種の根性主義だろうと誰もがうっすらと、けれど敏感に感じ取った。その後のオリンピックの有観客に固執する彼の姿を見て、誰もがその解釈で間違いではなかったと確信した、はずだった。けれども、ワクチン接種で情勢は彼の思惑通りにコロナ、じゃなかった、コロリと変わった。「無料で接種できて有難い」。無料の意味も解らなくなった高齢者の列に、わたしも加わっていることを感じた一日。

昨日(7月10日)コロナワクチン(1回目)を接種した。接種から1日以上経った現在では、「少し腕が重いかな」程度。2回目の接種予定は7月31日。7月中に接種完了を標榜していた国の計画から計算すれば、高齢者の中では一番最後の日程のはずだ。

接種を待つ間ちらちら眺めていると、少なくとも高齢者のあいだではコロナへの恐怖感はすでに相当薄くなっている、と感じる。ついこの間まで「怖い、怖い」だけだったのが、ワクチン一つでいとも容易く「安心、安心」に変わっていく。二回の接種を終えた人たちが、浮かれるようにあちこち出かけるのを止めることはもうできないだろう。このままいけば、秋の行楽は夏に倍した花盛りになるに違いない。

つい先日までのコロナ対策でのすったもんだや、医療体制の不備とか多くの指摘、提言された事柄などは、あっという間にその「安心、安心」の中に埋もれていく。そして、数年後またそっくり同じことを繰り返すだろう。「反省」のポーズしかしない国、自分や人間について深く考える習慣もなく、そうした教育もしない国では、災害も幸福もすべてが「運」(という名の人まかせ)である。でも、それがいまの日本なのか?わたしたちって本当にその程度の思考レベルなのだろうか。「国民とは、自分がたったいま溺死させられていることさえ解らない人のことだ」、という言葉を思い出す。