「時代」に乗り遅れる

「Hurry up a little bit(少し急いで)」水彩 F4

先日のブログに載せた絵を描いたとき、途中で何枚か写真を撮っておいたので、それをつないでみた。ここ半年は「動画」とその編集で頭いっぱいなので、とにかく途中経過はなるべく撮っておく。

ウォーキング中、イヤホンからの「乗り遅れない」という語が、耳に引っかかった。ある業者が「時代の波に乗り遅れないように○○をする」という、普通なら聞き流すような流れだったと思うが、「時代の波って、その波の中にいたら分かるものか」という、いつもの反発心が、ことさらにその言葉を「保存」してしまったらしい。

もしかして、私がいま動画(編集)で頭を悩ましていることも、「時代の波」に乗るためなんだろうか?私自身の絵画史では「絵画の時代」はすでに終わっている。何かの文章にそう書いた記憶もある。けれど今も自分は絵を描いている、絵画の時代はすでに閉じたのに?それは、「絵を描くことは私の宿命」だと感じているからだ。どんなに時代遅れになろうと、宿命ならば仕方ない、そう考えているからだ。ーそれなら、なぜいま動画なのか。

ひとつにはパソコンが手軽になり、「動く絵=動画」が自分にも手の届きそうなところにある(?)からだ。世は動画で溢れている。TV会社など専門業者でなければ手の届かなかった映像の世界を、若い人たちはスマホを使って、インスタグラム、YouTubeなど、日記を書くように気安く作っている。油絵具じゃなくたって、水彩絵の具じゃなくたって、自分たちの新しい絵の具で絵を描くよ。そういわれているような気がする。それなら私も新しい道具で絵を描いてみたい。けれど、そう思うこと自体時代の波に乗り遅れまいという心理なのか、いまは判断できない。(現状ではまだ全然ダメだが)、もう少し頑張れば私も「新しい絵の具」で、また新しい自分の絵を描けるのではないか、となんとか希望をつないでいる。

早朝ウォーキング

氏子の人たちが境内で落ち葉を燃やしているところに遭遇(7時半ころ)

今朝(12/18)で、ウォーキング歴ちょうど1ヶ月。とりあえずウォーキングは続いている。特にここ数日は夜明け1時間前に飛び出していく。最低気温が氷点下になってきたが、もともと寒いほうが好きなので、その点は全く苦にならない。雪でも降ったら、喜び勇んで外に飛び出すタイプ(まるで犬だ)。

私の場合、健康維持だけが目的ならウォーキングは続かない。実際、これまでそうだった。では、なぜ今ウォーキング?と言われれば「寒くなってきたから」が、たしかに本当の理由なのかもしれない。

中学生の頃は、雪の林の中を一人で歩くのが好きだった。早朝ならなおさら。ピリピリした冷たい皮膚感覚と、「一人でいること」が気持ちよかった。「冬の早朝ウォーキング」は、そうした、いわばちょっとだけ動物的な感覚を取り戻す機会になっているのかもしれない。そういう意味では、夏にはもうウォーキングはしていないかもしれない。

それにしても、早朝ウォーキングの人の多いこと。これは私の「一人」感覚を阻害する。それでも、よく観察していると、多くの人は私同様、「一人だけで歩く」ほうを好むように見える。夕方は歩かない。自転車でウォーキングならぬウォッチングに時々行くが、公園の周囲など、まるで隊列を組んでいるかのように続々と人々が歩いている。とてもその中で歩く勇気は湧いてこない。人々の健康志向の強さが、ある意味すこし不気味だからかもしれない。健康志向が強いということは、逆に言えば常々将来の健康に不安を感じていることの裏返しなのだろうか。健康を崩すということが、どんな悲劇をもたらすか、日々ニュースなどで肌身に感じるからなのかもしれない。その点には私は鈍感らしい。

「失敗」の「成果」

「少し急ぐ」 水彩・F4   2020.12.12

「失敗」と「成功」は正反対の概念のように思える。一見両立しない、コインの表裏のようだが、よく見れば「表」と「裏」はわずかな厚みの差だけ。「失敗」と「成果」ならどうだろう。「成果」は、失敗からも成功からも得ることができる。私の場合、特に失敗から学ぶことの方が、これまでは大きかったように思う。

失敗から多くを学べるようなケースもあれば、成功はしたものの、僥倖的な成功体験が次の大失敗につながる事例を、私たちは日常的、歴史的に経験してきた(している)。「失敗は成功のもと」は、まだまだ死語ではない。

「なぜ失敗した(する)のか」。冷静で粘り強い分析は、よく言われる「プチ成功体験」より、ある意味でかなり積極的な姿勢だと思う。失敗から目を背けず、失敗という他人目線の批評を越えて、未来を肯定する指向性をもっているからだ。そもそも、行動しなければ失敗さえできない。そのうえでそういう指向をするとき、「失敗」はすでにひとつの立派な「成果」だと言ってよい。

私たち(日本人)は、失敗をつい「自分の力の無さ」「人に迷惑をかけた」などと卑下しがちで、失敗を「怖れ」「隠し」、それゆえにことさら他人の失敗を非難したくなる国民性を持っているようだ。そうした「失敗の個人化」ではなく、「失敗こそ共有財産」と認識し、多くの人の意見の中でその分析をし、未来に繋げていく、粘り強い冷静さを持ちたい。そのような国民性を育てるためには何が必要か、私たちの国には、これまでそうした論理性が育たず、実際ほとんど考えてこなかった。コロナ禍の中で、あらためてそのことを感じる日々。